批判について

はい、どうも。みなさん、こんにちは。とうとう先月分の更新が「アフィ始めました」報告だけという惨憺たる有様になっている男、mimizuku004でございます。
正直、書くネタがないわけではないのですが、どうにも考えがまとまらないというか、書く気にあまりならんというか。
まあ、とりあえず書き出してみないことには進まないかと思って、キーボードに向かってみたというところなので、今日は、いつもにもましてダラダラと行こうかと思います。
ところで、以前、僕は、「自分はすごいツッコミ体質なんだけど、ブログ上だとそれほどでもない(当社比)」みたいなことを書いたことがあります。実際、なんでそうなってるかってな、一番でかいのは例によって例のごとく、めんどくさいからなんですが、他にも理由がないではなかったりします。
なんつうか、端的に言うと、ツッコミっつうか、批判っつうのは、大体のところ、無駄というか、無益なことが多いように思うんですよね。
ここ最近書いた批判記事の類い(東浩紀終了のお知らせ - 一切余計行政訴訟について〜ねたミシュランによせて〜 - 一切余計)でもちょこちょこと書いたし、twitterの方でも、ちょろっと書いたことがあるんですが。
そもそも批判ってな、辞書的な定義を持ち出せば、

人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。

とかいうことになるんですが、自分が何らかの批判をしたとして、相手がそれを正すかっていうと、そんなことはほとんどないって気がするんすよね。
いささか絶望的な言い方をすれば、「言われるまで分からん奴は言われたって分からん」って話で。
同じような話としては、以前も引用した、隆慶一郎の、

既に成人となった男の人格を変えることは、人間に出来ることではない。それは神の領域だった。

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

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ってのもありますし、そもそも、他人に何かを言われて素直に聞ける人間なんてそうそう居ないんですよね。おいらも含めて。*1
だから、批判ってな、殆どの場合、徒労に終わると思うんですよ。その批判が向いてる本人との関係では。
いや、むしろ、徒労で終わればいいほうかもしれません。批判されていい気持ちになる人間なんて、そうそういないでしょうから、批判された当人はいやな気分にもなるでしょうし、批判した人に反発したりすることもあるかもしれません。そうなれば、批判した方もいやな気分になりますよね。
こうして考えてみると、批判ってな、やっても、誰も幸せにならないって気がしてたんですよ。というか、その考え自体は、今も変わってないんですけど、もうちょっと別な見方もあるなあとか思い始めまして。
それは、何かってえと、批判の対象になっている人自身じゃなくて、それ以外の第三者との関係もあるよなあ、と。
要するに、ある言論や人を批判することによって、第三者に、その言論や人を判断する材料を与えるというか、それらによって、引き起こされている、周りの誤解や混乱の類いに対処するというか。
そういう話もあるんちゃうんかなあ、と思うわけっすよ。
あと、ごくごく個人的な信条の話ですけど、「表現の自由」あるいは「思想の自由市場」という思想を信奉している以上、自分が間違っていると考える言論を、自分の言論を以って、淘汰しようとしなきゃいけないんじゃないかなあ、とか。
そんなような心境の変化が背景にあって、ここ最近、ちらほら、批判記事を書くようになって来たわけですよ。これが。まあ、相変わらず面倒くさがってはいるので、そんなにやる気満点なわけでもねえですが。
ここら辺の話は、その批判記事でも、ちょろっと匂わせてはいるんですけど、そういう細切れみたいな形じゃなくて、一度、ある程度まとめて書いた方がいいかなあ。とか思って、今回、こういう記事を上げて見ました。
まあ、ただ単なる自己満足といや自己満足なんですがね。
しかし、これで、次回以降、批判記事をバンバンあげるぜ! とか、そういうことには、あんまならないんやろうなあ。何はともあれ億劫やし(笑)。
それでは、今日は、この辺で。
BGM:「nowhere」FictionJunction YUUKA

*1:というか、言われる相手によるかな。