物語とはキャラ狂いと見つけたり――物語にストーリーは必要か? 〜らき☆すたから考える〜完結編

えーでは、そろそろ続きを書こうと思います。まあ、またクソ長くめんどくさそうなことになりそうだったんで若干放置気味だったのでありますが、「いつぞやの通りすがり」さんにコメントをいただきまして(ありがとうございます)、どう返信したものかうだうだ考えていて、もうこれはコメント欄でその場凌ぎの返信をするのではなく、続き書いたほうが良さそうだと思ったので書きます。

ちなみに前回の記事はこれ。
古木の虚 - 物語にストーリーは必要か? 〜らき☆すたから考える〜

さて、私は前回、

いささか言い過ぎの感はあるが、あえて言うならば、ストーリーなど、どうでも良いのである

物語の本質とは……「人」である。物語とは人を描くものなのである。

と書いた。


しかしながら、このような偏った意見には、異論も多いと思われる。特にストーリー重視派の方からは激しい反発が予想されるし、いつぞやの通りすがり氏のように、世界観・設定を重視される方も居ると思う。

私とて、それらの重要性を否定するものではない。以前、私はこんなことを書いたことがある。

恐らく、全ての物語には、共通する要素(というか素材?)が二つはあるはずである。それは、世界と人である。どのような物語にも、これが存在しているはずである。多分、小説にしろ、漫画にしろ、TRPGのシナリオにしろ、このどちらかを出発点にしているのではあるまいか。
古木の虚 - 物語の要素とは〜惚れたはれたがハラヒレホレ〜

この場合の「世界」とは、「人」――もっと言うと、主人公以外のすべて、舞台や周りの環境(人間関係を含めた)を指す。
つまり、「人」と「世界」が物語の両輪なのである。*1

にもかかわらず、何故あれほどまでに「人」を強調したのか。それは決して理由のないことではない。
またここで私の悪い癖が出るが、*2葉隠』の有名な一節として、「武士道とは死ぬこととみつけたり」というものがある。
これを題材にした隆慶一郎の『死ぬことと見つけたり*3が最近の座右の書であることは以前も触れたが、何十度となく読み返して、段々とこの言葉の意味に対する見方が変わってきたのである。
この一節は、(私の解釈だが、って前回も書いた気がするぜ、ヒャッハー)恐らく、単純にそのままの意味でもなければ、ただの比喩でもないのだと思えるようになってきたのだ。

武士とは言うまでもなく戦士である。そして、戦さ場とは生死の場である。そこで、生きるの死ぬのということにこだわってしまっては、進退を誤ることがある。だから、常にあらかじめ死んでおくのだ――というのが、今までの私の理解であった。それは、明らかな間違いではないと思う。だが、今の私の思考はそこから一歩踏み込んだところにある。
そこにたどり着くための手がかりが、「我人、生くる方が好きなり」という葉隠の一節である。これは、「私も人である。生きている方が好きである」という意味らしい。
当然である。人間とて生物である。生存本能というものがある以上(それ以外の理由もあるだろうが)、「生きていたい」と思う方が正常であろう。
しかし、見方を変えると、このことは、こうも言えないだろうか。
「人間は、「生」の側に偏っている」
無論、それが正常である。しかし、武士がそれではいけない。というのが、『葉隠』の一つの思想ではないか。
つまり、「死ぬことと見つけたり」と言い、「常時死身になり」、「死狂い」になり、死の側に意識的に偏ることによって、生と死の平衡を保とうとしたのではないか。
そうすることによって、

ことの大小を問わず、理由の正逆を問わず、一瞬に己れのすべてを賭けて悔いることがない。正に勁烈としかいいようのない生きざまである。だからこそこの二人は、今突然切腹する必要がなくなっても、眉毛一本動かさない。そんなものか、と思うだけなのだ。生命を捨てることが別段どうと云うことでもない以上、不思議に生命を拾うこともまた、別段どうと云うことではあるまい。
死ぬことと見つけたり」(上)P137より

という風になることができるのではないか。*4

これは、当然のことながら、

異様きわまる生きざま
死ぬことと見つけたり」(上)P18より

以外の何ものでもないのだが。


ここまで来れば(付いて来ている方が居るかどうか、大変に不安ではあるが)、私の言いたいことは、おおよそのところ、見当が付くと思う。
要するに、人は、特に私のようなオタク連中は、「世界」――こまごまとした世界設定や人物設定、凝ったストーリーの方に偏ってしまいがちなのではないか、と思うのである。

大体、「オタクの作った話はつまらない」というのは、これが大きな原因として、一つあるのではないだろうか。*5

前回の記事でも触れたが、オタクというのは、

諸元とか装備とか詳しい仕組みとかなんやらの方に萌えてしまう

という性質を、多かれ少なかれ持っていると思う。つまり、設定の側に偏っているのである。
まあ、大体そうすると、例えばファンタジー小説の冒頭が、○×暦▲▲▲年、□※П大陸東部の◆◆王国では――。とかそんなんになったりするわけである。*6

また、ストーリーについても、似たようなことが言える。
多くの創作者は、ストーリーを考えるとき、「美しい物語」*7にしたいと考えるはずである。しかしながら、「こういうストーリーがやりたい」というのは、多くの場合、キャラの都合ではなく、作者の都合であり、ややもすると、キャラと噛みあわなかったり、おいてけぼりにしたりしてしまう。*8
創作者も、「ストーリー」に偏っていることが多いように思うのである。


だからこそ、私は、自戒を込めて、「人」の重要性を強調したのである。
もっと言うと、「人」と「世界」は両輪ではあるが、多少なりとも「人」の側に偏っておく方が良いと思っている。

設定であるとか、ストーリーというのは、良く土台に例えられる。そして、だからこそ、しっかりと作られるべきであるということもよく言われているかと思う。

しかし、だからと言って、何もドデカい石垣をぶっ建てる必要性はあるまい。そりゃ耐震偽装されているような土台では困るだろうが、別にコンクリ(必要最低限)でも十分ではなかろうか。

大体、土台は土台である。土台をそんなにまできらびやかに飾ってどうするのか。
客を家に招いておいて、「この土台良いでしょう」とか言って土台を見せびらかす奴がどこに居るのか。そんなのは、興醒めであるし、「いや、家を見せろよ」と思うのは、私だけであろうか。*9

そうであるならば、土台よりも家を飾ることに力を注ぐべきではないだろうか。

また、これは抽象的な一般論であるし、かなりの暴論だが――。
キャラ(の描かれ方)が微妙で、設定が良いものと、キャラが良くて設定が微妙なものだと、後者の方がまだ良いことが多いように思える。

何故こういうことを思ったかと言うと、キン肉マンは何故こんなに面白いのかということをずっと考えていて、こう思ったのである。
まあ、キン肉マンが面白いかどうかとかいうのもまた何か揉めそうな気もするが、私は大変面白いと思った。*10

でも、キン肉マンの設定とかストーリーとかって、よくよく考えてみると、わりと微妙だと思う(笑)。
「ゆで理論」とか「ゆでだし」とかいう言葉が生まれるくらいだからなあ。

設定とか凄いよね。前方後円墳に鍵をかけろとか、「ちょwwwありえねーwwww」って思った。
まあ、荒唐無稽な面白さはあるとは思うけど、こう、何て言うか、上手いというか、、設定の妙を感じさせる方では、あんまりないと思うんだ。*11


でも、キン肉マンって面白いよね。それはまさに人の面白さだと思うんだ。
キン肉マンとかロビンマスクとかテリーマンとかのキャラがすごい立ってて、キン肉マンのやるときゃやるぜという格好良さとか、ロビンの静かだけど熱い超人魂とか、テリーマンかませ犬っぷりとかキン肉マンへの友情とかが良く描けてるから面白いと思うわけですよ。多分。


逆に、キャラが微妙で設定が良いものの場合、「設定は良かったんだけど、何となくもったいないと言うか、生かしきれてない」とか、「雰囲気は良かったんだけど、何となく入り込めなかった」とか、そういう印象になってしまうような気がするのである。


例えば、Fate/stay nightとかは、(僕の印象としては)そうだった部分が少しあった。*12
個人的には、神話や伝説の登場人物が大集合して互いに殴りあうというだけで、いやが上にも血沸き肉踊るわけですが、見ている当時は、もう一つ入り込めなかった。

原因は割りとハッキリしていて、主人公である衛宮士郎君のことがあまり好きになれなかったのである。
これまた余談になるが、当時は少しばかり当惑したものであった。Fateってこんなに人気あんのに、俺が彼を好きになれないのはどういうことなんだろう? ひょっとしてそんな風に思ってんの全宇宙で俺だけ? とか。その後知り合いに、「いや、そういう人、結構居るよ」と言われて、割と安心したけど。
まあ、それはそれとして。
何と言うか、そういう風に、「人」が微妙だったりすると、作品全体の印象が微妙になってしまうような気がするのである。


畢竟、舞台や設定、ストーリーというものも、「より良く人を描く」ためのものでなくてはならないのではなかろうか。設定や世界は良いのに、イマイチ面白くないというのは、そこの主従があやふやになったり、逆転したりしているのではないだろうか。


まーだから、「キャラ狂い」とは言いますけれども、それ以外がどうでも良いというのは、スローガンというか、プロパガンダなわけですよ。

設定や何やかやを作るのは良い。されどそれは、あくまでも舞台。そこでの主役は、その舞台上で生きざまを見せる「人」なのです。その主従だけは、強調しすぎるってことはないのではないかと思っているわけです。


付言しておくと、らき☆すたはそういった「人」以外の部分をプレーンにすることで、主役は「人」であることを強調しているようにも思えるのです。というのは、やっぱりうがちすぎているか。







な、長かった……。
死ぬかと思った……。

もう、当分長文は書かねえー。

追記(20071029):人を描くということ 〜物語にストーリーは必要か?(ry外伝〜 - 古木の虚

                               

BGM:「愛の剣」TAKAKO & THE CRAZY BOYS

*1:余談になるが、この人と世界との対立や衝突とその解決を描くのが物語であるという言い方も不可能ではないと思う。まあ、この件に関しては「セカイ系」との絡みでいずれ触れたいと思っているのだが

*2:話が迂遠であると同時にわけの分からないところから引用してくる

*3:

死ぬことと見つけたり(上) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(上) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

*4:逆に言うと、こうも考えられる。死に狂わなければ、その偏りを戻せないほどに、人は生に偏っている。つまり、人は生に狂っているのかもしれないのだ

*5:無論のこと、これだけではないとは思うが

*6:まあ、これは極端な例だが。でも、ついつい設定を沢山考えてしまうというのは、心当たりのある人も、結構多いのではないかと思う

*7:この言葉の意味も多義的な気がするけれども

*8:この辺、TRPGで言うところの「吟遊詩人GM」というのが非常に分かり易い例なのだが、そもそも分かる人があんまり居なさそうな辺りが玉に瑕である。

*9:そんでもって、石垣の上にどんな凄い城が建っているかと思えば、普通の一戸建てだったりするのだ

*10:まあ、全部見たというわけではないけれども。直撃世代でもないしね

*11:すげえ失礼なこと言ってるけど

*12:これまたアニメしか見てねえので、ファンの方には申し訳ないんだけど