全ての文化はカウンターなのではあるまいか。

ちょっとよくわかんねえもんがあったので言及してみるテスツ。
小学館ライトノベルをやるってのはここを見てる人ならわりかしみんな知ってるかと思うのですが、それの前座?みたいなのでガガガトークって言う企画があるのですよ。
まあ何か適当な人呼んで来てラノベについて語るぜーっていうのなんですけど、そこでちょっと疑問に思ったことがあるのでちょいと書いてみるべか、と。
問題はこのエントリ。

つうか俺音声の方聞いてないんで、文章だけでモノ言いますけど、そこはご了承ください。
で、どこが引っかかったかというと、以下引用。

東:たとえば、谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズ。今、アニメが話題になってることもあって、amazonで10位中に5冊ぐらい入ってるんで、ネットで一番売れている本でしょう。でもこれは末期的とも言える。「涼宮ハルヒ」は、アニメ版は知らないけれど、小説は明らかにメタライトノベルです。この作品が、ライトノベルの新しい世界の扉を開いたっていうよりは、ライトノベルの「メタ」なんだよね。同じく人気作家である西尾維新も、メタライトノベルと言える。批評的に見て面白いけれど、そういう作品がライトノベルのマーケットの中心ってどうなのか。

佐藤:本来ならカウンターであるべきものが、メインになってしまっているってことですよね。それはアニメにも言えるんですよ。『エウレカセブン』とか『BLOOD+』は、カウンターだったはずだし、『ガンダムSEED』もガンダムに対するカウンターだったはずなのに、今やそれがメインのように扱われてしまっている… カウンター的な作品がきちんとカウンターとして成立してないと、シーンは脆弱化しちゃう。

イシイ:カウンターを取られているのに、わからない。メタなのに、それに気づかず真正面から受け止めてしまうユーザーが多すぎるのも原因かもしれない。

まあ、微妙にこの人たち、何言ってんだろ?とは思うんですけど、要するに、カウンターが主流に来てるのが駄目だと。あとメタってよくわかんねえな…。いやまあ何となく分かるような気はするんですけどね。

とまあ、それはいい。

問題は、カウンターがメインになることの何が駄目なん?っていう疑問。
まあ、僕は文化史だの文学史だの美術史だのは全然知らない人間なんですけど、そういうのの変遷とか発展って、カウンターとして作られたものがメインになっていったっていうことなんじゃあないかと思うんですが。

例えば、表現の一つのやり方として写実主義というものがありますよね。
Wikipedia:写実主義

でまあこのウィキペディアの記事によると、写実主義象徴主義印象派から批判された、とあります。
つまり、この時点で象徴主義印象派写実主義に対するカウンターだったんだとおもいます。
(ここでおいらの美術史の知識の無さが披露されますが)でその下には、ロマン主義に対抗して写実主義を主張したとあります。ここでは、ロマン主義に対するカウンターとして写実主義があるわけですよね。

しかしながら、ルネサンス以降の伝統、つまり王道は写実主義(らしい)んですよ。
つまりは文化とかそういうもんっていうのは、常に何らかのカウンターとして生み出されたものによって変遷、発展していくのではなかろーか、そんな気がするんですよ*1

つまり、そういう意味では、カウンターがメインになっても一向に構わないんじゃねえかと。というかカウンターがメインになった時点で、それらはカウンターされる対象になってんじゃねえかと。

ていうか、そもそもにこの人たちが言ってるライトノベルのメインであるとか直球であるとか(これは冒頭の煽りですけど)って何を意味してるんだろうっていう。
例えば、それはスレイヤーズ!なんだろうか。でも、スレイヤーズ!って、カウンター的だったと思うがなあ(笑)。
普通(それまでの、って言ったほうがいいのかな)、ファンタジーの主人公で、ところかまわず魔法ブチかます奴とか、悪人に人権は無いとか、脳みそスライムな剣士とかねーよ(笑)。

あとなあ…なんか妙に思うのは、


東:はっきりしているのは、「これライトノベルって言っていいのかな?」というようなものがライトノベルという分野に入ろうとした時に、何らかの化学反応が起きるのであって、「ライトノベルの規則を忠実に守って再現しました」というものばかり出てきても、何の意味もないということ。たとえば、新本格ミステリーの成功っていうのは、そういうところにあったわけです。綾辻行人の本質は、ミステリーのものじゃなかったのかもしれない。でもそれが、ミステリーの枠に入ったときに生じる妙な違和感、その余剰分が小説の魅力を出したり、ジャンルそのものを活性化させて、パワーを与えていくわけですよ。

ライトノベルに対して異質なもの、というのは、ライトノベルの(あるかどうかしらねーけど)メインに対するカウンターなんじゃねえの?
カウンターに出てきて欲しいって言っておきながら、カウンターがメインになると困るってどないやねん。
ただ、この部分だけを見ると、もっともなことを言ってますけどね。確かに、(これまたあるかどうかしらねーけど)「ライトノベルの規則を忠実に守って再現しました」っていう作品に意味はない。
前にこっちで書きましたけど、全ての作品がコピーや模倣、インスパイアによって始まっていることは間違いありません。どこで言ってたか忘れましたけど、スティーヴン・キングは、この世の中にクリエイターなんてもんはない、みんな既存のものを切り貼りしてるエディター(編集者)なんだみたいなことを言ってたと思います。(言ってなかったらごめん)

でも、そこになんらかの自分らしさとか個性というか、砕けて言うと「俺ならこうするね」っていう部分が欲しい。それが作品の魅力になるんだと思います。
そのとき、「俺ならこうするね」って言う考えは、どうやって生まれるかというと、既存の作品に対するカウンターとして生まれるんではないかと思います。*2

だから、僕は、「カウンター、大いに結構じゃん」とか思います。


ただ、ハルヒライトノベルそのものに対するカウンターだとすると、少しだけ違ってくるかもしれません。*3
つまり、スレイヤーズがそれまで存在していた一般的なファンタジーに対するカウンターであったとするならば、ひょっとすると、ライトノベルというのは、既存の表現物に対するカウンターの集合体であったのかもしれない、と思うのです。


しかしながら、ハルヒライトノベルに対するカウンターであるとするならば、初めて内側に向かってきたということなのかもしれないのです。
まあでもそれは、ライトノベルがカウンターされるだけの重みを持ち出した、ということなのかもしれないですけど。*4


まあ、とにかく、どんどんカウンターしていけばいいじゃまいか。
そんな風に思っている僕です。

ってとこまで書いて、カウンターの用語法がこの人たちと違ってたらどうしようかとビクビクしてますが(笑)。*5
そして相変わらず文章にまとまりねえなあ…(´・ω・`)

*1:美術史とか良く知らないから、つっこみどころ満載な気がするけど(笑)

*2:要するにこんなの面白くねー!ってとこから(笑)

*3:ちなみに僕はハルヒは未読です。アニメは一応見てますが。後西尾維新も読んだことねえっす

*4:僕はライトノベル研究家でもなんでもないのでどーでもいいことですが。

*5:それ以上に天下の小学館に喧嘩売(ry