何のために、誰がために論考を書くのか〜使える論考ではなく偉大な論考を〜

なんかもう相変わらずまとまらねえけど書きなぐるよ。

毎回反応が遅れ気味だけど、これでも結構急いだんだよ!!

 TRPGの論考は、読んだ人のためになるライフハックを提供する意図が無い限り、「非実用的」だったり、「当たり前なこと」だったり、「現実にそいません」。何故なら論考とは、考察することであり、哲学することだからです。

 哲学の性質については、東京大学 大学院総合文化研究科助教授の野矢先生が語っていたことが、しっくりきます。「哲学のゴールは、誰もが持っている常識的な考え方」という話です。

 科学者は、人が思っても見なかった結論を出して、皆を吃驚させてくれます。しかし、哲学者は、普段普通の人が何気なくいるところがスタート地点であり、ゴールでもあります。常識と言い換えることのできるスタート地点から、何故そのように言えるのか?と疑問を持つところから始め、そう言える、そうは言えない、といった極まで振れて行って、議論を尽くし、考え抜いて、元いたところに戻ることが結論になります。科学者の出す結論と違って、誰も関心しない、ありがたみの無い結論であり、常識の外に零れ落ちて戻れなくなっている一部の人に対してのみ、ありがたみの有る結論です。

 TRPGについて哲学する論考は、その過程で極に振れるため「非実用的」ですし、思考実験など、もとより「現実にそいません」。出てくる結論が「当たり前なこと」なのは道理です。

 論考の実態を知らない人は、論者を科学者か魔法使いに見立てて、役立つ結果を求めるのかも知れませんが、それは角違いであり、論考系のエントリに対する「非実用的」、「当たり前なこと」、「現実にそいません」といった指摘は、今更しても仕方が無いと思います。

 論考なんて、もともと、たいしたものじゃありません。

わい、思うんやが、「非実用的」とか「当たり前のこと」とか「現実に沿わない」とかいう批判を受ける原因は、厳密にいうとその論考の内容自体が、「非実用的」だったり「当たり前のこと」だったり、「現実に沿」ってないっていうことではないんではなかろうか。(多分、この辺の批判ってな、2chのオモロスレとかの話をしてると思うんだけど。オモロいTRPGサイトNo.58


ホームズによれば、あらゆる思想は煽動であり、柴田錬三郎によれば文学は読者の精神に衝撃を与えるために存在するという。
つまり、言論は「相手」を「変える」もしくは、「相手」に「影響を与える」ものであり、そうでないものは言論ではない。とかいうと言いすぎかもしれないが、せめて「論考」と名の付くものは、そうあるべきではなかろうか。


そして、一概には言えないが、批判を受けている論考は、そうはなっていない。
「相手」を見ていない。「相手」を誤っている。相手を「変えよう」、相手に「影響を与えよう」とはしていない。もしくはその傾向が希薄である。


もっと分かりやすくいうなら、TRPG論考とは、「TRPGプレイヤー」を「変える」、「TRPGプレイヤー」に「影響を与えよう」とするものであるはずなのに、それらは、そうなっていない。TRPGのための論考になっていない。
一言で言うと、「論考のための論考」になっている。
「論考する者」を対象にしているのだ。
無論、「TRPGプレイヤーであること」と「論考する者であること」は、厳密に言うと違う属性である。
だから、TRPGのための論考と、論考のための論考は、違うものになってしまう。
論考のための論考は、「TRPGプレイヤー」にとっては、「的外れ」なものにほかならない。
だからこそ、そのような論考は「TRPGプレイヤー」から批判を受けてしまうのではないか。


また、私はTRPG論考は「哲学」であるべきではないと考えている。
多分、TRPGを哲学すると言うことは、「TRPGが何であるのか」を考えることなのだろう。
そのことに意味がないとは言わない。しかし、それだけでは意味がないとも思う。
まあ、この辺は俺が「法哲学」をやっていたこととも無関係ではないんだが。
法哲学」と「哲学」は違う。少なくとも、俺のやっていた「法哲学」と「哲学」は違う。
法哲学」とは、「法が何であるのか」を考えることではない。
法哲学」とは、「法がどうあるべきなのか」を考えることなのだ。

「それが何であるのか」を考えることと、「それがどうあるべきなのか」を考えることは違う。
「それが何であるのか」という分析は、「だったら、どうしたらいいのか」「どうすべきなのか」という提言の礎であるべきだと思う。

そう、提言である。提言とは、まさに相手を「変えよう」、「影響を与えよう」という意思の発露にほかならない。

ちょっと乱暴だとは思うが、TRPGを哲学すること、「TRPGが何であるのか」を考えることには、その意思がない。それには、何の意味もないし、多くのTRPGプレイヤーにとっては、苛立ちを覚えるものになるだろう。


まあ具体的に言うと、こんな感じか喃。


『うわああああ』
『助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ!』
『突っ込んでくるぞ、畜生!』
『撃て! 撃て! 撃て!』
『弾が! 弾が効かない!』
『退却だ! 退却!!』
『衛生兵! 衛生兵!』
『くそったれ!遮断された!畜生!』

隊長 「畜生、何なんだあいつは! 何て装甲してやがる!! バズーカも効かねえ!!」
ジョン「隊長! 奴に関して大変なことがわかりました!」
隊長 「何だと!?」
ジョン「奴の装甲は、ネコミミメイド合金で出来ています!」
隊長 「……で!?」
ジョン「これは耐圧・耐熱(ry……」
隊長 「……で?」
ジョン「とにかくすごく硬いんです!」
隊長 「で? 俺たちはどうすりゃ良いんだ?」
ジョン「いえ、それだけ分かったので……」
隊長 「死ね」


セッションは戦場である。プレイヤーは現場の兵士である。そんな中で、提言も何もないただの分析を垂れ流す輩は、ケツから鉛弾をひりだす羽目になっても文句は言えないのである。
まあ後方ならまだマシだろうが。
なんというか、批判を受けるような論考を見ていると、こういう「前線」と「後方」の認識の差みたいなものを感じることがあるような気がするんじゃが喃。



あと、論考なんてたいしたものじゃないってのにも、少し言っておく。


確かに、私の論考なんてたいしたものじゃないだろう。
この世界全体どころか、TRPG界全体からしても、私のブログなんざ塵みてえなものである。*1
だけど、それは他人にとっての話だ。他人から見れば、そうだろうという話だ。
まあ、そう思われるのは仕方ない。たかが知れた数の人間にしか届かないのだから。届いていないのだから。
だが、私にとっては、そうではない。
それは、私にとっては、偉大なる行いなのだ。
私以外の誰かを、変えられるかもしれないのだから。
自分自身を変えることさえ至難であるというのに、他人を変えられるかもしれないのである。
これを偉大と言わずして、何と言おう。人数など、問題にもならない。


世界にとっては、小さな一歩でも、私にとっては大きな一歩なのだ。


論考とは、明日すぐに「役立つ」ようなものでなくてもよいかもしれない。
だが、私は、それらに「偉大」であって欲しいと思っている。




あとまあ、これは余談になるんだけど、論考が批判を受ける理由が、「非実用的」だからとか、そんなだったら、うちのサイトももっと批判受けてもいいと思うねん。ていうかね、たとえば、昔FEARのサイトのSEOの話をしたことがあるんだけど、そのときオモロスレに貼られたことがあんだよね。
絶望した!……ってまた絶望先生かよ!! - 古木の虚
これ、内容見ても、どうみても「非実用的」だし、こんなこと言っても何もならんから、その理屈でいくと叩かれても良かったと思うんだけど、思い切りスルーされたからね。


それに、あのスレでよく「実プレイが足りてない」とか「実プレイ分がない」とかいって批判してるけど、そんなこと言ったら、俺ここ二年くらい一切実プレイ無いからね。その意味では、うちの論考は叩かれてしかるべきだと思うんじゃが。


だから、そういう批判の原因は、やっぱり、「論考のための論考になってる」とか、「分析だけで提言が無い」とか、そういうのが大きいんやないのかな、と思う。

まあ後は内容自体がトンデモってことがあるだろうけど。まあそりゃまた別の話だ喃。

追記:言い忘れたけど、隊長とジョンの会話の直前の通信っぽいやりとりはヘルシングの某シーンから取ってみた。一部改変したけど。


BGM:「誰がために」成田賢&こおろぎ'73

*1:未だにオモロスレのテンプレにも載らねえんだぜ。紅茶さん(id:koutyalemon)とかは載ってんのに