正論と人

たまに、正論は人を傷つけるとかなんとかいう話を目にすることがある。
確かに、正論は恐ろしい。
それは、隆慶一郎の言葉を借りるならば、「大上段の剣の恐ろしさ」である。

 主馬は愕然となった。今更に奥村助右衛門の恐ろしさを知った。それは云ってみれば、正論の恐ろしさだった。大上段の剣の恐ろしさと云える。一切の小細工や屁理屈を斥け、ま正面からずんと斬り下げる剣の威力が、助右衛門の言葉にはあった。

一夢庵風流記 (新潮文庫)

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こういうのを見ると、正攻法というものの恐ろしさが身に染みる。
もっというならば、整然と行進していく歩兵や戦車に、レジスタンスが情け容赦もなく踏み潰されていくようなイメージが浮かぶのだ。


だが、と僕は思う。
確かに正論というものは、恐ろしい。しかし、それ以上に恐ろしいのは、正論よりも、それを述べている人なのではないか。
人は、己の正義を確信したとき、どこまでも強く、そして、どこまでも残酷になることが出来る。
このことは、歴史が証明していると思う。
そんな風になってしまう、なれてしまう、人こそが、真に恐ろしいのではないか。
逆に言うと、人をそんな風にしてしまう、ある意味で、人を酔わせてしまうというのが、正論の真の恐ろしさではないのか。
そんな風にも思うのだ。