「批評とは空想である」



と、京極堂こと中禅寺秋彦は言った。

「あのね、書評なんてものは概ね四種類しかないのだ」
そこで中禅寺は何かを持つような仕草をした。
「ここに林檎があると思い賜え。で、林檎がありますと云う。これが一つ目。で、兎に角この林檎は美味しいですよ食べてみましょうと云う。これが二つ目。それから、実際自分で食べてみたけれど少し硬くて酸っぱかったから好みじゃないとか云う。これが三つ目。最後は、この林檎はこうして作られたと思うとか、この林檎の所為で蜜柑が不味くなったとか、そう云う空想を巡らせて愉快なことを云う」
「空想?」

京極夏彦著「邪魅の雫」P255より

次いで京極堂は、一つ目から三つ目は犬や幼児にでも書けるが、四つ目はそうはいかないと言う。

「最後のものは流石に犬や幼児には書けないのだ。文章力以外にも豊かな想像力と構成力が必要になるからね。なんせ、林檎の栽培の仕方やら、林檎の植物としての位置付けなんかをだね、空想してでっち上げなくてはいけない」
「ですから空想って何なんですか」
「空想だろうに。そんなこと判る訳がないんだからね。まあ――林檎の場合は或る程度判るかもしらんが、小説なんかの場合は絶対に判らない」
例えば――と中禅寺は雑誌を一冊開いた。
「ええと、これか。作者の筆は滑つてゐる。思ひ付く儘に單語を連ね、偶然出來上がつたパズルの繪を見て、絓に入つてゐる。計算は絕對にない。さうでなくてはこのやうな奇拔な展開は成し得ない――と書いてある」

同上P257より

「慥に関口君の小説にはそうした面もある。自動書記の如く考えなしに書いた作品も存在する。だが、この評者の取り上げている作品に関して云うなら、こりゃ丸ハズレだ。彼はその作品を四十回以上推敲している。計算がないどころか指摘箇所は計算尽くで仕上げられたものなのだ」

同上P258より

「頭の中のことなんて、本人にだって能く判らないのだよ。まあ経緯を知っている僕が証人になったって証明は無理だ。つまりこうした論評は、総て、確実に、単なる空想なんだ。でもね、だからこそ尤もらしい書き振りが要求される。この作品は逆立ちして足で書いたに違いないと云われても、誰も信じやしないだろう?」
「面白いからとても信じたいところですが、まず信じません」
「そうだろう。つまり如何に思い付きを本当らしく見せかけるかと云う、騙しの技術が肝要になるのだね」
「だ、騙してるつもりはないでしょうに」
「いいや。騙しだ。まあ、書いている連中の中には自分の思い付きが真実だと頑なに信じている者も多く居るようだが――そう云うのは論外だよ。まあ駄目だね」
「駄目ですか」
「駄目だな。元来九割方間違っているのだから、それを前提に証拠を集めて論理構築をしなきゃいけないのさ。信じてる者に限って、そうした手続きを怠るからね」

同上P258-259より

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

一つ蛇足っぽいことを書いておくと、「証拠集め」するって言って例えば作者に話聞いたりしても、それがどこまで当てになるかは分かんないんだよね。『頭の中のことなんて、本人にだって能く判らない』んだから。もしも、作者がそれっぽい話をしたとしても、当然その話をしたのは作品作った後だろうから、その当時に比べれば、考えが変に整理されちゃってたり、「後から考えるとあれはああだった」みたいな話が入って来ちゃったりすることも考えられるから。
閑話休題
一方、俺は、「批評とはこじつけである」と言った。

「批評」って割とこじつけみたいなもんだから、言おうと思えばどんないい加減なことでも言えるみたいなとこが結構あって、究極的には、そこらへんは批評する人間の良心に期待するしかねえんだけど、ネット上で見る「批評」にはそれに対する配慮があまり見られないような気がしている俺。less than a minute ago via P3:PeraPeraPrv

もそっと謙抑的な態度で批評してもバチは当たらねえだろう的な。less than a minute ago via P3:PeraPeraPrv

そしてまた批判めいたこと言われると、「批評には価値があるんだ!」→「だから、俺の批評にも価値があるんだ!」と主語を巨大化させてくるのがパターンのような。「批評」に価値があることは、「あなたの批評」に価値があることをなんら担保しないと思うのだが。less than a minute ago via P3:PeraPeraPrv

てなわけで、「批評」を名乗る文章を書く人も読む人も、ここらへん少し気をつけて欲しいなあ、などと思ったりします。
大体ここらへんのことをすっ飛ばすと、「空想」通り越して「妄想」になっちゃうことがあるような気がするので。
ただまあ、この話はこの話でいいんですけど、実際のところ、「作者が何を考えてたか」なんてな、「批評」にとっては、一つの要素というか、一つの材料にすぎないとかいう話もあるんですよね。

大袈裟に言ってしまえば彼女は自然主義的リアリズムという近代日本の小説の約束事の外側にあっさりと足を踏み出してしまった人だったのです。
多分、新井素子さんだってその時自分が何をやってしまったのかは気づいていなかったはずです。

大塚英志著「キャラクター小説の作り方」P25より

キャラクター小説の作り方

キャラクター小説の作り方

しかし、かりに新井自身の意識がそうだったとしても、彼女の小説がマンガやアニメの小説的対応物という印象を与えたことは疑いない。

要するに、大塚英志東浩紀も「作者自身は考えてなかっただろうけど、こういう意味合いがある」って言うわけですよ。
「批評」ってもんがそういう「意味合い」を考えるものだとしたら、「作者が何を考えてたか」なんてわりとどうでもいいんですよね。
……のはずなんだけど、「作者はこういうことを考えていたのだ」と言いたがる人が後を絶たないような。
まあ、気持ちは分からんでもないんですけど、それを言いたいのなら、『頭の中のことなんて、本人にだって能く判らない』ってことを心の片隅にでも置いといてくれりゃいいのにと思ったりします。
それでは、段々書くのがめんどくさくなってきたので、今日はこの辺で。


あ、いま思い出したけど、このまとめ、今回の話とちょっと関係あるような気が。
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BGM:「瞳の欠片」FictionJunction YUUKA