わかつきひかるVS隆慶一郎!?

こないだ更新したばかりですが隆慶一郎好きとして、ちょっと書いておかねばと思うことが出来たので更新します。
まずは登場人物の説明をwikipediaから。

わかつき ひかる(女性、11月16日 - )は、日本の小説家(ジュブナイルポルノ及びライトノベル作家)。京都府出身。

隆 慶一郎(りゅう けいいちろう、1923年(大正12年)9月30日 - 1989年(平成元年)11月4日)は、日本の脚本家・小説家。

で、このわかつきひかる先生のブログに突然隆慶一郎の名前が出たわけです。
なんか読者さんからメールをもらったらしいんですけども。

ともちんさんから頂いたメール
(引用はじめ)
生け花を立花に昇華したのは後水尾天皇院政をしいていた頃なので正確には上皇)ですので生け花は武士のたしなみってのはあってるんですが公家が花をしないってのはちょっと違うと思いますよ。
この後水尾院は立花で歯を食いしばりすぎて歯並びがわるくなっちゃったぐらいのめりこんだそうです。
(引用おわり)

が私の知らない知識だったので、私の30年以上の思いこみ(私は6歳で華道をはじめたので)は間違いだったのかと、ミクシイで聞いてみたり、京都の華道家の友人に電話したりして調べてみました。

立花を作ったのは池坊です。これは京都でお花を習う人の常識で、間違いがないと思います。

もしかして、ともちんさんは、

花と火の帝(上)を読まれたのではないでしょうか。

ミクシイの友達が、隆氏の上記の小説と、隆氏が同時期に書いた小説に、「後水尾天皇が、立花に夢中になり、歯をくいしばり歯並びが悪くなった」という記載があったと教えてくれました。

後水尾天皇は、寛永文化の発展に関わるサロンのようなものを宮中に開いていたようで、華展もしょっちゅう開催したそうです。
お花の好きな天皇だったのでしょうね。華道家パトロンだったのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E6%96%87%E5%8C%96
ですが、京都の華道家のあいだでは、池坊専好は有名でも、後水尾天皇は知られていません。友達も知らないって言ってました。

隆氏はウィキによると東京にお住まいであったとのこと。華道好きということもなそうですね。京都でお花を習っていたというのはなさそうです。

これは想像にすぎませんが、隆氏は知っていてウソを書いているのだと思いますよ。だって、天皇華道家パトロンにするよりも、立花を作った人、って書くほうがお話が盛り上がりますもん。

同上

花と火の帝隆慶一郎の小説。

花と火の帝(上) (講談社文庫)

花と火の帝(上) (講談社文庫)

さらに、

隆慶一郎氏は、すばらしい時代小説作家で、私などおよびもつきません。ですが、東京にお住まいで華道を習っていらっしゃらなかった隆氏より、京都の華道のこと「だけ」においてなら、京都出身で師範代、お花歴30年以上、お花に一千万円以上かけたの私のほうがくわしいのはないかと思うのですが、どうでしょうか。

隆氏の史実ではない創作部分(ウソ、ミス、あるいは間違い)がほんとうに見えて、わかつきが30年以上に渡って積み上げた経験と知識が間違いに見えてしまうのって、やっぱり、隆氏が時代小説作家だからなんだろうな、って思います。

ジュブナイルポルノ作家が公家を書くのと、時代小説作家が書くのでは、時代小説作家が書くほうがほんとうっぽく見えますよね。



では、実際に、隆慶一郎は、「花と火の帝」でどのように書いているのだろうか。

二代池坊専好は、室町期の書院飾りとして発達した『たてばな』を『立花』に昇華させた名人である。その専好の最高の理解者であり、パトロンでもあったのが後水尾院だった。
押板の掛物の前景を飾るにすぎなかった『たてばな』を、一瓶の花が自立した鑑賞の対象となる完結性を備えた『立花』に成長させた最大の功労者は、いわば後水尾天皇だったのである。天皇の異常とも思えるほどの立花好きと場所の提供がなかったなら、いかに二代専好といえどもこれほど見事に立花を大成することは出来なかった筈だ。
事実寛永六年一月から七月までの禁中における立花会は、なんと三十回以上開かれている。この年の暮れに、突然の御譲位があったことを思うと、天皇のお気持ちが、そこはかとなく読みとれるように感じられるのは、筆者一人ではあるまい。
後に後水尾院は同じ『立花』好きの第十皇子尭恕法親王に、
「立花もほどほどにするがよい。自分が歯を悪くしたのは立花のためだ」
そう語られたという。歯が抜けるほどくいしばって『立花』に集中されたと云うのだ。もって院の『立花』への並々ならぬ傾斜のほどが読みとれると思う。

隆慶一郎著「花と火の帝」(下)P351-352より

上を見ても分かるように、隆慶一郎は、「後水尾天皇が立花を作った」などとは言っていない。
わかつき氏は

後水尾天皇は、寛永文化の発展に関わるサロンのようなものを宮中に開いていたようで、華展もしょっちゅう開催したそうです。
お花の好きな天皇だったのでしょうね。華道家パトロンだったのでしょうか。

と書いておられるが、まさに、隆慶一郎はそう書いているのである。
よって、

これは想像にすぎませんが、隆氏は知っていてウソを書いているのだと思いますよ。だって、天皇華道家パトロンにするよりも、立花を作った人、って書くほうがお話が盛り上がりますもん。

というのは、全くの誤解である。
まあ、あれですよねえ。「花と火の帝」のことをmixiの知り合いに教えてもらったそうなんですが、その知り合いも教えるなら教えるでもっとちゃんと教えてくれりゃいいのに。
しかしながら、隆慶一郎が何を書いたかをきっちりと把握しないままに、こういう記事を書いてしまったことは、いささか軽率ではなかったかと思います。
書いてもいないことでこんな風に書かれたら、隆慶一郎でなくても、たまったもんじゃねえっすよ。
まあ、同情の余地がないわけではないんですけど。
このメール送ってきた方が実際に「花と火の帝」読んで、こういうことを言ってきたのかどうかは分かんないんですけど、可能性はあると思います。ていうか、なんか文章とか内容とか似てるし。
でも、もしも、そうだとしたら、この人自身が、「花と火の帝」の内容を勘違いしてる。
それに、常識として、

小説家はウソつきな生き物なんです。小説を信じちゃだめですよ。

という話もある。
現に、隆慶一郎だって、別の短編で、

兵助は先ず利方を街道脇の松の木陰に移すと、自分の馬を調べ始めた。蹄鉄がなかった。

隆慶一郎著「柳生非情剣」P27より

柳生非情剣 (講談社文庫)

柳生非情剣 (講談社文庫)

と、江戸時代に蹄鉄があったかのように書いてますけど、実際は、

江戸時代の日本に蹄鉄は無い

らしいですからね。
なので、万一時代小説の記述を鵜呑みにしてそういうメールを送ってきたんだとしたら、それはそれでどうよという話にもなります。


ちなみに余談になりますけど、隆慶一郎自身が華道をやってたって話は全然聞いたことないですが、
エッセイによると、

うちのかみさんは会津出身の古い武家の娘である。

時代小説の愉しみ (講談社文庫)

時代小説の愉しみ (講談社文庫)

らしいので、ひょっとしてひょっとすると、奥さんは華道をやっていたかもしれません。まあ、これこそ憶測なんですがね。
それでは、今日は、この辺で。
BGM:「花のように」angela