大きな物語はなくなった。本当に?

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

読みましたよ、この二冊。実はちょっと前の話なんだけど。
まあ読もう読もうと思ってたところでゲーム的リアリズムの誕生が出たんで、2冊まとめ買いして読みました。

いろいろ言いたいことがあるんですけど、いつ書けるかさっぱりなんで、軽く書けるとこだけ書いときます。*1

というわけで、ごく軽く。
でまあ、タイトルの話なんですわ。
この本の中で東氏は大きな物語が衰退し、小さな物語が乱立しているっていうことを主張するわけですよ。
この場合、物語とかいう言葉を使うから(読んでない人には)やや分かりにくいかと思うんですけど、要するに物語=価値観だと思えば良いかと。*2

曰く、

ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち「大きな物語」の衰退で特徴づけられる

と(ゲーム的リアリズムの誕生P17)
んで、

ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論

らしいです。(ゲーム的リアリズムの誕生P19)

んで、このおっさんが言うには、二次創作の隆盛に、それを見ることが出来るらしいです。
つまり、大きな物語(原作)を無視して、小さな物語(二次創作)が創作される。というよりも、大きな物語(原作)の都合のいい部分をつまんで、再構成する。ここでは、大きな物語の特権性が失われている、と。もはや、みんながみんなその大きな物語を共有しては居ないのだ、それを共有しなければならないという圧力が低下しているのだ、ということらしいです。

んーなんか上手く説明できん気がするけども……、まあ基本的にこの記事、この本読んでない人が読んでもさっぱりな気がするのでまあいいか。


んでさ。ここでようやっと俺が思うことが出てくるわけですよ。
確かに、二次創作やらなんやらを見てると、大きな物語(価値観)の共有っていうのは、無くなって、受け手(?)による解釈の素材にしかなってないんかもねーって思わないことも無いんだけどさ。*3

ホントに共有されている大きな物語って無いの?本当に、特定の物語の共有化圧力って低下したの?
いや、俺も低下してるんだろうなってのは否定しないんだけどさ、俺はどうも別の形で生き残ってる気がするんだよね。

つまりは、現在における大きな物語というのは、キャラクターなんではないのかな?
という疑問。
つまり、今のオタクと言うのは、従来の大きな物語であった、その作品世界(というか設定とか)ではなく、キャラクターを大きな物語(価値観)として共有しているのではなかろうか。

と言っても、なんじゃらほい?という感じなので、も少し説明しますがね。
ここでは、黒歴史として悪名高きかのTV版HELLSINGを例にとってみる。
このTV版HELLSINGは、漫画版とかなり話が違うってか全然違う。正に二次創作のようなアニメである。漫画なんかのアニメ化だとそういうのも多いし、面白いことも多いのだが、残念ながら、これの評判は至極悪いと言わざるを得ない。
それは何故か。
まあ、いろいろ理由はあるだろうが、最も大きな理由は、キャラクターだと思う。
一言で言えば、この中に登場するキャラクターは、漫画版を知っている人間からすれば、
「こんなのアーカードじゃない」
インテグラはこんなこと言わない」
「セラスはこんなことしないだろう」
アンデルセンしょぼっ」
という感じである。

多分、私と同じ条件(つまりは原作を知っていて、原作が好き、という条件)ならば、ほとんどの人が同じ感想を持つのではないだろうか。

しかし。
これは妙である。
東氏の言うように、大きな物語が凋落し、原作の特権性が薄れたならば、このような描かれ方、解釈も、「こんなのは違う」という評価は受けないはずである。「こういうアーカードインテグラ・セラス・アンデルセン)もありかな…」という評価になってもおかしくはない。まあ、クオリティの話でネガティブな評価を受けることはあるかもしれないが、「こんなのは違う」=「本来あるべき姿ではない」という評価は受けないのではなかろうか。
そして、見た人間の多くが、「こんなのは違う」と感じたとするならば、その人間達は、「そのキャラクターの本来あるべき姿」という価値観をかなり強烈に共有しているのではないだろうか。

つまり、キャラクターを大きな物語として、共有しているのではないだろうか。*4
二次創作とかも大体そんな感じな気がするんだけどなあ。まあ、俺あんまり同人誌って読んだことないからよくわかんないけど。
学園モノじゃないアニメとか漫画の二次創作で学園モノをやっちゃうっていうのは、良くあるパターンのような気がするけど、この場合、従来大きな物語として扱われてきた作品の背景世界や設定はほとんど無視して、学園モノにしちゃうんだろうけど、キャラクターはそんなに弄らないんじゃないのかな。
このキャラクターだったら、こういうことしそう、とか、やっぱりこういうことするよね、っていうラインから大きく逸脱する事はないんじゃないだろうか。そして、それが出来るという事は、キャラクター(という価値観)を共有しているからなのではないだろうか。*5

とか思う俺。
だから、大きな物語が凋落したって言われてもなあ……みたいな感じはする。
大きな物語が凋落したというよりは、大きな物語として共有されるものが、システムから個人に移行したんじゃないのかって気がするから。

まあ正直この辺はもう少し詰めなきゃいけないし、もっと書きたい事もあるんだけど。
あえて言うなら、このキャラクターの共有はスターシステムに似てるなって思う。
本来のスターシステムってのは、ある一人の作者が居て、その作者の作品の中でキャラクターが共有されるってもんだったんだけど、ここでは、みんなに共有されてて、その共有を拠り所に、いろんなところ(二次創作)に登場するってことで、なんつうか広義のスターシステムのような気がする。

しかしなあ…いやこの辺、もっと考えたいし、その上で書きたいんだけど、もしも昨今のオタク文化がそういうもんを持ってるとしたら、手塚治虫の影響力の巨大さを思い知らされる。多分、日本で(二次元の)スターシステムを生み出したのは、手塚だと思うから。
この天才が過去に存在した事は、確かに大きかったんだろうけど、ここまで影響力がでかいと最早呪縛にさえ思えてくる。


とかまあ、そんなこんなで。
やっぱ中途半端だけど……真剣に書こうとするには時間が無さ過ぎるぜ。

*1:時間が無い上に、詳しく書き出すと、大塚英志のキャラクター小説の書き方を読み直さないといけない気がするので

*2:つうか俺もぶっちゃけ動物化するポストモダンって読んでてさっぱりだった。それに比べると2の方は随分とわかりやすくて、2を読んで1の内容がようやく何となくわかった……様な気がする。なのでここで語ってる解釈が間違ってたらごめん

*3:東氏はこの辺をツリーモデルとかデータベースモデルとかで説明すんだけど

*4:まあキャラクターを大きな物語として(ryって言うか、みんなに共有されてるものが大きな物語なんだけど

*5:勿論、キャラクターの個性や一面をデフォルメするっていうのはあるだろうけど、それだって元々そいつがどういう奴かっていうのを共有してないと、デフォルメしても全然面白くないと思う。