物語にストーリーは必要か? 〜らき☆すたから考える〜

なんだか乗り遅れた感もあるのだが、らき☆すた論争というものがあるようだ。
んで、今更ながら、つらつらと考えたことがあるので書きつけておこうかと思う。
さて、らき☆すた論争においては、さまざまな視点があるようだが、ここでは、

らき☆すたは(大した)ストーリーが無いからつまらん(面白くない)」

という意見について取り上げる。
恐らく、Danimationid:Shsgs氏)や、404 Blog Not Found小飼弾氏が、この立場であるかと思われる。


なんというか物語のメリハリがないというか、(人間関係の)情報量が増えていないというか、下手をすると「第2話以降話が進んでいないんじゃないの?」と思ってしまいます
Danimation - らき☆すたに対する当サイトの見解への皆様方の反響によせる

らき☆すた」は、普通の女子高生の物語。以上。

これではお話にならないはずで、実際お話にならない。

404 Blog Not Found:作品評 - らき☆すた



しかし、本当にそうだろうか?

物語とは、「(大した)ストーリー」が無ければ、つまらないものなのだろうか?

否。断じて否である。

いささか言い過ぎの感はあるが、あえて言うならば、ストーリーなど、どうでも良いのである。

本当にストーリーが一番重要なのだとしたら、小説もアニメも漫画も一切不要である。
それらはすべて「あらすじ」「プロット」のみで良いということになってしまう。

しかし、どんなにストーリー性の強い物語でも、「あらすじ」のみで十分である、それが魅力のすべてである、というものはないはずである。


例えば、銀河英雄伝説などは、かなりストーリー性が強い物語だが、ファンの人に、「あらすじ(ストーリー)だけで良いよね」とか言ったら、ぶん殴られるのは必定である。(銀河英雄伝説 - Wikipedia*1

ならば、物語にとって、ストーリーとは、必ずしも本質的ではない。

では、物語の本質とは何であるのか。それは、ストーリーとともに、物語を構成するもの、「人」である。

物語とは、人を描くものなのである。


物語で面白いと感じる対象は、恐らくストーリーよりも、登場人物の方なのではないか?
少なくとも、後者のほうが、そう感じることが多いのではないだろうか?

ストーリーではなくて、そのなかで描かれている、人の言動や決断、想いに対して「面白い」と感じるのではないだろうか?*2

だからこそ、麻雀のルールが分からなくても、アカギは面白いのではないか?*3

麻雀のルールが分かれば、さらに面白いであろうことは容易に想像がつく。
だが、そうでなくとも面白い。

それは、アカギや鷲巣様を見ているのが面白いということである。
アカギや鷲巣様の言動が良く描けているから、面白いのではないか。

つまり、人が良く描けてさえいれば、それだけでも面白いのではないか。それが、物語の面白さの本質ではないか。

そのように思えるのである。

恐らくではあるが、人は他人に対する理解が進むと快感を覚えるのではないだろうか。

例えば、分かりやすいのがツンデレである。あれは普段の「ツン」に対して「デレ」という新たな面を知ることによって、そのキャラクターに対する理解が進むということではないだろうか。
その辺に、ツンデレの魅力の一端があるような気がしている。

但し、これは別に新たな面でなくても良いということも付言しておく。

例えば、先も触れたアカギと鷲巣様、特にアカギなどは、ほとんどキャラとしての変化、新たな面が現れるということなどなかったように思う。

恐らく、違う面でなく同じ面でも、その理解が更に進むということでも、良いのではないだろうか。

要するに、

『ああ、こいつ(このキャラ)なら、こう言いそう。』
『やっぱり、こいつなら、こうするよね(こうなるよね)。』

というのでも良いし、

『へえ、こいつ、こんなことも言うんだ(こうすることもあるんだ)。』

というのでも、どちらでも面白いのではないか、という話である。


さて、ここまで、物語とは人を描くことであると述べてきた。
それでは、人を描くというのは、どういうことなのか? どうすれば良いのか?

結論:どうやってでもできる。何でも良い。

これはどういうことか。

「2週間で小説を書く!」という本に面白い一節があるので、引用してみよう。

2週間で小説を書く! (幻冬舎新書)

2週間で小説を書く! (幻冬舎新書)

かつて、吉行淳之介という作家が、近所のタバコ屋までタバコを買いに歩いていくというだけでも、四十枚程度の短編小説は書けるということを述べたことがある
(清水良典著:2週間で小説を書く!P50より引用)

そうである。
私は、これを読んだとき、「流石に上手いこと言いやがるなあ……」と思った。*4


これは、私の勝手な解釈だが、私はこれを「近所のタバコ屋までタバコを買いに行くだけでも、人を描くことはできる」ということだと考えている。

AさんとBさんが同じようにタバコを買いに行っても、その様子は全く違うはずである。

Aさんはさっさと早足で買いに行くかもしれないし、Bさんはぶらぶらしながら買いに行くかもしれない。
買うタバコの銘柄だって、同じかもしれないし、違うかもしれない。(私はタバコを吸わないので、銘柄の違いとかはよく分からないんだけど)買う量も、Aさんが1カートンなら、Bさんは2、3箱かもしれない。

そして、そんな様子からでも、Aさんがどういう人なのか、Bさんがどういう人なのか、その片鱗くらいは分かるのではあるまいか。


戦争やその他の異常事態を通してしか、人を描くことができない、人を理解できないなどということはないはずである。
もしも、そうであったら、我々は、普段の生活を通じて他人を理解してゆくこともできないのではないだろうか、とも思えるのである。


つまり、大したストーリーなど無くても、「キャラが描けている」「キャラが分かる」だけで十分面白いのである。少なくとも、面白くなる可能性は十分である。
そして、らき☆すたがキャラを「描く」ことができているかどうかと言えば、ほとんどの人が「YES」と答えるのではないだろうか。
そう、らき☆すたは面白いのである。そのことが良く出ているのが、全てが台無し―雑記帳―さんの、この記事だと思う。

最近の僕のツボポイントは春休みに柊家に遊びに来たこなたとつかさが縁側で「最近暖かくなってきたよね〜」「そだね〜」って会話してる所です。なんだか妙に面白い。こなたの問いに対してつかさが「そうだね」という4文字の短い答えをわざわざ1文字省略して「そだね」と答える所が妙に面白い。
全てが台無し―雑記帳―: らき☆すたは普通に面白いっての

「妙に面白い」というのは、そこにつかさというキャラが良く出ているからではなかろうか。
その、「そだね〜」という一言が、つかさというキャラクターを良く描いている、何ともつかさらしい一言だったから、面白かったのではなかろうか。(全然違ってたらすいません)


あえて言うなら、らき☆すたというのは、そういう風に単純に楽しめばよいと思う。それこそ、グイード・ミスタのように、である。

「グイード・ミスタ」の人生観は少年時代から「単純に生きる」というものであった
眠る事を楽しみ
朝日の中の木の枝や雲の動く様子を見る事を楽しむ
ワインの香りを楽しみ
チーズをかじる事を楽しむ
ジョジョの奇妙な冒険文庫版34巻P150より引用)*5

『眠る事を楽しみ 朝日の中の木の枝や雲の動く様子を見ることを楽しむ』かのように、つかさの「そだね〜」を楽しめばよいのである。

単純であるとか、思考停止であるとか言われるかもしれないが、要は素直に楽しめばよいだけの話である。


とまあ、ここまで、らき☆すたの面白さについて述べた。
では、何故つまらないという意見が出るのであろうか。それには、いくつかの場合が考えられると思う。*6


・そもそも肌に合わない。
→人には得手不得手というものがある。そもそも、万人に受け容れられるモノなどあるはずがないようにも思うので、当然である。まー、こればっかりはなー。


・ニコニコなどでの祭り(大騒ぎ)に引いてしまった。
→いやー、俺もハルヒのときは結構そうだったんだよね。まあ、別に一緒になって騒がなくても、普通に見りゃ良いと思うよ。つうか俺がそうだし。


・そういう面白さを感じ取れない。
→あえて言うなら、「そだね〜」を面白く感じるような素直な感受性が鈍磨しているというか。まあ、それは言い過ぎとしても、らき☆すたが地味すぎて面白さが分かりにくいという話だろう。
これまた蛇足になるが、その地味さが、ここまであからさまかつやりすぎとも言える「パロディ」を投入した一因なのではないかと思う。その辺、Life is beautiful: テレビ番組の低俗化に関する一考察と似たような問題があるような気がする。
要するに、それは、

視聴者の大脳よりは小脳に近い部分に直接訴えかける砂糖や塩のようなもの

なのではないか。
今の視聴者には、地味な良さが受けない。だからこそ、パロディという派手なものを加えたのではないだろうか。いや、加えざるをえなかったのではないだろうか。というのは少しばかりうがちすぎているか。


小飼弾氏がらき☆すたを白米に例えたのも、この辺の地味さが原因だろう。ただ、氏は、その白米が美味い可能性には言及していない。まずい白米にどんなおかずを組み合わせてもまずいような気がするのだが。
ネット上では、かつてデスノートコラが一世を風靡したが、(ってか今でも見るが)、あれだってそもそもにデスノートの出来が良かったから、コラも面白くなったのではないかと思う。
そう考えれば、ここまでMAD素材として盛んに取り上げられているらき☆すたにも同じことが言えるのではないか、ということにもなるのだが。
そういえば、昔美味しんぼで似たような話があった気がする。寿司の話で、美味いシャリとまずいネタ、まずいシャリと美味いネタでは、どうやっても美味くならない。両方が良くなければならない、とかそんな話だった気がする。(ていうか、そういえば、あれハンバーガーの回だったかな?)


・真性のオタクだから、分からない。
→恐らく、アルファと呼ばれる人たち(良く知らんけど)にらき☆すたの面白さが理解できないのは、これが理由である。

オタクというのは、表面的な楽しみ方があまりできない、というよりも、それだけでは満足できない人種である。

要するに、普通の人が戦闘機を見て、
「わー、かっけー」とか「はえー」とか楽しむのと違って、その向こう側、諸元とか装備とか詳しい仕組みとかなんやらの方に萌えてしまうのである。

勿論、私だって、ぬるオタとはいえオタだから、そういう点に興味が無いわけではない。だが、「興味はある」という程度である。
だが、本当のオタク――仮にS級オタクとでも呼ぼうか――は、そこが気になって気になって仕方ないのである。オタク的気質が本能のレベルに達していると言うことができるだろう。

しかし、それでは、らき☆すたは楽しめない。らき☆すたは、「向こう側」を楽しむものではなく、表面を楽しむものだからである。


良く見え過ぎる目と長過ぎる手を持っているというのも、なかなか不便なものらしい。
まあ、別に悪いとは思わない。ただ、そういう人も居るんだなあ……と思うだけである。

人は、空が青いというだけで、泣くこともできるというのに。





ただ、小飼弾氏については、良く分からないことがある。
氏は(上でも引用したが)

らき☆すた」は、普通の女子高生の物語。以上。

これではお話にならないはずで、実際お話にならない。

と書いている。
しかし、どんな人であれ、自分の知らない世界を知っている人、そこに住んでいる人を見るのは、存外面白いものである。

よく、2chまとめ系サイトで、「〜〜だけど、質問有る?」という系統のスレが取り上げられているが、そのスレの面白さは、そういうことだと思う。
ならば、「普通の女子高生の物語」だって、面白い可能性はあるはずである。
それとも、小飼弾氏は、女子高生の生態について、そんなにも詳しいのであろうか?
…………イマイチ否定できないような気がしてしまう辺り、ほんとアルファブロガーは侮れない。

まあ、それは冗談だけど(笑)。

つうか、件の記事のラスト当たりに、

学園モノは結構勉強になる

とか書いてあったわ。
しかし、

それは面白いというのとは違う

というのは、何だかよく分からんなあ。
自分の知らない世界を垣間見ることによる快感を、「面白い」と称することに何かしら問題でもあるのだろうか。
まあ、確かに「勉強になる」ってのと「面白い」というのを峻別することは不可能ではないのだろうけど、それも楽しみ方としては全然アリなんではないかと思うんだがなあ……。

ま、いっか。
人それぞれだしな。






あー、しかし、長文書くとホントまとまらねー。
やれやれだぜ。


追記(20070917)
続き書きました。
古木の虚 - 物語とはキャラ狂いと見つけたり――物語にストーリーは必要か? 〜らき☆すたから考える〜完結編



他参考リンク:かさぶた。 どこが面白いの? 『らき☆すた』論争(?)まとめ





                             BGM:「美しければそれでいい」石川智晶

*1:ていうか少なくとも俺は文句言うね。まあアニメ派だからあんまり偉そうなこと言えんのだけど

*2:蛇足になるが、心に残るのも、ストーリーではなく、人である気がする。だって俺銀河英雄伝説のストーリーって細かいところ全然覚えてないんだよね。なんとか会戦とかの順番とかも全然覚えてないし。でも、ケスラーの嫁さんがメイドさんとか、ルッツの嫁さんがナースとか、そんなことは覚えてんだ。

*3:少なくとも俺はそうである

*4:吉行淳之介って読んだこと無いけど

*5:

ジョジョの奇妙な冒険 34 (集英社文庫)

ジョジョの奇妙な冒険 34 (集英社文庫)

*6:無論のこと、これ以外にもさまざまな理由があるだろうが