人を描くということ 〜物語にストーリーは必要か?(ry外伝〜
以前、物語にストーリーは必要か? 〜らき☆すたから考える〜 - 古木の虚、物語とはキャラ狂いと見つけたり――物語にストーリーは必要か? 〜らき☆すたから考える〜完結編 - 古木の虚という記事を書いた。
んで、完結編の方のコメント欄で、ひふみーさんという方と、こういうやりとりをした。
ひふみー 『銀河英雄伝説の中の言葉に「人は抽象的な“思想”そのものに追従するのではない。
それを具現化した“人”に付き従うのだ」というようなものがありましたね。
やはり一般的にヒトは“ヒト”(の有り様)にまず惹かれるという事なのでしょうか。最近はこーいう事言うとすぐ「要するにキャラ萌えか」と
簡単に切って捨てられる傾向もありますが。』
mimizuku004
ひふみーさん>
どうもはじめまして。コメントありがとうございます。
一つあるのは、設定とか世界観とかに比べると「人」には普遍性があるっていうことがあると思います。僕は時代小説とかが好きでよく読みますけども、結局のところいつの時代も人間のやってることって大して変わってないんですよね。その時代の価値観によって多少は変わりますけど、「人間の営み」みたいなものは大して変わらない。つまり、現代にも通じるようなところがある。だから、そういう歴史ものとか古典っていうのも読み継がれていくような気がします。だから、僕は「キャラ萌え」ってのも、あんまり悪いことではないと思ってます。それは、人に興味を持って、人に面白さを見出してるってことだから、ある意味では至極「真っ当な」楽しみ方だと考えられるのではなかろうか、とか(笑)。(まあ、楽しみ方に対して「真っ当」とか言い出すのはあまり良いことではないのですが)
そんで、昨日久しぶりに藤沢周平の竹光始末を読んでいたら、解説で藤沢周平が似たようなことを言っているコラムが引用されていた。
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時代や状況を超えて、人間が人間である限り不変なものが存在する。この不変なものを、時代小説で慣用的にいう人情という言葉で呼んでもいい。
(P264)
一見すると時代の流れの中で、人間もどんどん変わるかにみえる。(中略)
だが人間の内部、本音ということになると、むしろ何も変わっていないというのが真相だろう。(中略)
小説を書くということはこういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと、仮に答えを出す作業であろう。
(P265)
なんというか、こういう同じようなことを言っているのを見つけると、何とも言えない気分になるよね。
くすぐったいような、悔しいような。
まあでも、これは昔読んだときに、僕の無意識に残ったって可能性がなくはないけどね。ただ、僕は結構本の内容は忘れる人間な上、以前はあまり解説を読まない人間だったので、多分違うとは思うけど。(変わりなく本を読みつつ、変わっていく私。 - 古木の虚)
しかしなるほど。藤沢周平は、「それ」を「人情」と呼ぶのか。
一方で、森村誠一は、それを「志」と呼ぶようだ。
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文芸は人間の精神を表現する。精神を表現しない文芸は、文芸ではない。
(P11)
小説の使命は、人間、またその人生を描くことに尽きる。小説の書き方に鉄則はないが、人間を描かない小説には志がない。なぜなら、人間だけが志を持っているからである。
(P16)
「それ」を何と呼ぶか、という点に、その作家の個性が良く現れているような気がして、大変に面白い。
私はそれを何と呼ぼうか。とりあえずは「魂」「魂のありよう」とでもしておこうか。もう一つ上手い言い回しが見つからないが。
ただ、もう一つ思うのは、その普遍性とは必ずしも時間軸だけを貫通しているのではない、ということだ。
作家だろうが政治家だろうが悪人だろうが善人だろうが、その世界で生きているということに変わりは無い。
生きていれば、辛いこともあるし悲しいこともあるし、怒ったり笑ったりメシ食ったり糞もたれる。そのことにも変わりは無い。
そして、物語で描かれるべきは、まさに「それ」なのではないか。
そうであるならば、その「人」が渋いおっさんであろうが、美少女であろうが、貴賎(という言い方は適切ではないとも思うが)はない。どのようなキャラを通してでも、「人」を描くことはできるのではないか。
そんな風にも思えるのである。