創作の境地

なんかこないだから同じような話ばかりしているような気がするんだけど、全然違うところで違う人が同じようなことを言っているのを見ると、ちょっと感動するよね。
人を描くということ 〜物語にストーリーは必要か?(ry外伝〜 - 古木の虚
兵は巧遅よりも拙速を尊ぶ。ブログも同じか。 - 古木の虚

まあ、前書いたのと違って、今回は他人事だからちょっと違うけど。


僕は京極夏彦って全然読んだことないんだけど、たまたまインタビュー記事を見てたら、こんなのがあったんですよ。

「どんな本でも面白いんです。少なくとも本は、何人もの目を通って作られ、何百人という人の手を伝って売られてる。必ず『面白い』と思った人がいるから出版されてるわけです。面白さのツボがわからなかったからといって、『面白くない本』と断言するのは間違い。ツボ探しに失敗してるだけです。だから読書を楽しみたいと思うなら、一生懸命ツボを探す。面白がろうとして読むことが大事なんですよ」


で、誰がこれと同じようなことを言ってたかというと、岡田斗司夫なんだけどさ。

モノの価値というのは、自分がどれほど見つけられるかで決まるわけですよ。だから映画や本や、たとえ人物評にしても「つまんない」「薄い」という人は、対象の中から「面白い要素を見つけられませんでした」とカミングアウトしてるに等しいわけですね。
 テレビやブログで時々僕が「この作品はイマイチ」「これは好きじゃない」と発言するときがありますが、もちろんこの場合だって、作品が本当にダメな場合もあるけど、岡田斗司夫という人間が「この作品が理解できないバカモノ」という可能性のほうが高い。
 僕がいつも「面白いモノ」「優れたモノ」と「自分が好きなモノ」を区別して語ってるのは、ま、そのあたりもあるわけですよ。

ね? すごく似てるでしょ。ってかほとんど同じことを言ってる。
京極夏彦の方が記事としては古いけど、別に岡田斗司夫がパクったわけじゃないと思うんだよね。
こういうのって、すごく面白い。

あと、岡田斗司夫は最近、「好き=才能」っていう概念を提唱してるみたいだけど、これもまた、同じようなことをスティーヴン・キングが言ってたりする。

才能は練習の概念を骨抜きにする。何事であれ、自分に才能があるとなれば、人は指先に血が滲み、目の球が抜け落ちそうになるまでそのことにのめり込むはずである。誰からも相手にされないにしても、行為それ自体が絢爛たる演奏に等しい。表現者は満足を覚える。それ以上に、陶酔境に入ることさえしばしばだろう。ことは楽器の演奏や、野球の打撃や、フルマラソンの完走ばかりではない。本を読み、物を書くについてもまた同じである。私は作家志望者に、毎日、四時間から六時間を読み書きに充てることを勧めるが、かなり厳しく思えるかもしれないこの日課も、資質があって歓びを感じるなら、およそ苦にならない。
スティーヴン・キング「小説作法」P171−172)*1

やっぱり、やってる内容とかが違ってても、創作や創作者にはなんか通ずるものがあったり、おんなじ境地に達したりすることがあるんじゃ喃。


なんかついこないだ、藤子・F・不二雄氏のコピペが捏造だ、みたいな話があったけど、あれに関しても同じようなものがないではないのではなかろうか、と思う喃。

藤子・F・不二雄『よく「漫画家になりたいなら漫画以外の遊びや恋愛に興じろ」だとか
「人並の人生経験に乏しい人は物書きには向いていない」だとか言われますが、
私の持っている漫画観は全く逆です。
人はゼロからストーリーを作ろうとする時に「思い出の冷蔵庫」を開けてしまう。
自分が人生で経験して、「冷蔵保存」しているものを漫画として消化しようとするのです。
それを由(よし)とする人もいますが、私はそれを創造行為の終着駅だと考えています。
家の冷蔵庫を開けてご覧なさい。ロブスターがありますか?多種多様なハーブ類がありますか?
近所のスーパーで買ってきた肉、野菜、チーズ、牛乳…
どの家の冷蔵庫も然して変わりません。
多くの『人並に人生を送った漫画家達』は
「でも、折角あるんだし勿体無い…」とそれらの食材で賄おうします。
思い出を引っ張り出して出来上がった料理は大抵がありふれた学校生活を舞台にした料理です。
しかし、退屈で鬱積した人生を送ってきた漫画家は違う。
人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。
必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。
漫画制作でいうなら「資料収集/取材」ですね。
全てはそこから始まる。
その気になればロブスターどころじゃなく、世界各国を回って食材を仕入れる事も出来る。
つまり、漫画を体験ではなく緻密な取材に基づいて描こうとする。
ここから可能性は無限に広がるのです。私はそういう人が描いた漫画を支持したい。
卒なくこなす「人間優等生」よりも、殻に閉じこもってる落ちこぼれの漫画を読みたい。』

要するに、これって「取材の重要性」「取材をした方が、世界が広がる」とか、そういうことだと思うんだけど、例えば、森村誠一松本清張の取材に関してこんなことを言ってる。

清張先生が軽蔑している私小説、日本では純文学といいますが、純文学作家の場合ですと、この三つの能力【「創造力」「表現力」「構成力」】があれば書けます。大体、私小説というものは、私中心であって、私小説のテーマは冠婚葬祭や病気、それからセックス、飲食が多いです。ところが、よく読むとおわかりと思いますけど、松本清張という作家は社会を書く。それも社会の全方位にわたって書くという場合は、先の三つにプラス「取材力」が必要になります。巨匠松本清張といえども、全ての作品世界をカバーする知識とか教養があったわけではないと思います。自分の知らない部分を取材して、開拓して、作品化していったと思います。
森村誠一「文芸の条件」P38)*2(【】内は引用者注)

作家が作品領域を内省的世界から飛び出して外界に拡大しようとするとき、求められるものは取材力、それによって収集された情報の分析力(編集力含む)、時代を先取りする先見力などである。
(P61−62)

また、島本和彦新吼えろペンでは、こんなやりとりがある。*3
マルピーというキャラクターが漫画の持込をしたときの、編集者とのやり取りなのだが、

マルピー「ある映画にヒントを得て描きました!」
編集者 「ある映画ねェ……」
マルピー「女子スポーツ恋愛コメディ!」
編集者 「盛り込みすぎたねェ……」
    「アイデアが消化できていないし、リアリティがないよ!」
マルピー「ううっ!?」
編集者 「キミは恋愛したことがあるのかい?」
マルピー「あ…いや……」
    「コ…コソッと片思いくらいやったら……」
編集者 「スポーツしたことはあるのかい!?」
マルピー「み…観るくらいなら…!!」
編集者 「スポーツは観てるだけじゃダメだ!」「やれとは言わんが――語れるくらいになってないと!」
マルピー「語れるくらいに!?」
編集者 「恋愛だってそうだ!」「実際の経験も必要かもしれないが――なくても語れるくらいになってないと!!」
マルピー「ううっ。」
編集者 「語ってみろっ!」「キミの恋愛を俺に語ってみろっ!!」「ググッっと引きつけられる語りをしてみろっ!!」
マルピー「でっ、できましぇーん!!」
編集者 「語れもしないのにマンガに描いて――金を稼ごうなんて思うなっ!」
マルピー「ひーっ」「すんません――っ!!」
新吼えろペン六巻より*4

また、作品を書くための取材がどれほど凄まじいかに関しては、柴田錬三郎の「貧乏同心御用帳」の解説に、柴田錬三郎とその師匠の佐藤春夫のこんなエピソードが紹介されている。

昭和二十六年頃、佐藤春夫が心を魅かれたある女性を主人公にして小説を書こうとしていたが、その女性が昔柴田錬三郎と交渉のあったことを自ら喋った。佐藤春夫は直ちに彼を呼んでその女性について尋ねた。彼は女の立場を考えて、あからさまには答えなかった。ところが佐藤春夫は納得のいかぬところをその女性から聞き出し、それをまた柴田錬三郎に糺し、そんなことの繰り返しで彼は何度となく佐藤邸に呼び出された。佐藤春夫柴田錬三郎だけではなく、彼女に何らかの関わりのあった人には見境なく彼女のことを問いただした。それをみんなは戯れに、佐藤先生の御下問と言った。
御下問の過程で、その女性が柴田錬三郎に二百通もの恋文を出していたことが明らかになった。その恋文は保存してあるかと佐藤春夫から聞かれた彼は、読むとすぐ捨ててしまいましたと答えると、それは君が小説を書く場合どんなに重要か、それを捨ててしまうとは文士にあるまじき態度だ、と叱られた。
佐藤春夫はその女性に関するあらゆることを聞きだして納得してから書き上げたのが「日照雨」であった。書き上げてしまったら、憑き物が落ちたようにその女性のことを口にしなくなった。一篇の小説を書き上げるために、文士はいかに執拗に、なりふりかまわず対象を探求してゆくか、柴田錬三郎は師のすさまじい姿から学んだ。
(「貧乏同心御用帳」P363-364)*5

要するに、私小説的なもので、「冠婚葬祭や病気、それからセックス、飲食」のようなものを書くとき以外は、どんな作品であれ、多かれ少なかれ取材が必要になるのではなかろうか。いや、むしろ、「冠婚葬祭や病気、それからセックス、飲食」ですら、取材が必要な場合はあるだろう。あのコピペは、そういう取材の重要性を言うてるのではあるまいか。

もっと好意的に解釈すると、「人生経験自体が希薄で記憶を掘り出してもネタが無い。思い出の冷蔵庫に何も入ってない。 必然的に他所から食材を仕入れてくる羽目になる。」 ような人間の方が、必要に駆られている分、その取材を軽視せずに済むのではないかとか、人生経験が希薄だから、普通の人にとっては当たり前で取材なんてしないような部分も取材しようとすることが出来るのではないかとか、そういう解釈も成り立たないではない。まあ、これは言いすぎだと思うけども。
ていうか今思ったけど、ネタがない人間が取材を軽視しないというよりも、下手にネタがある人間は取材を軽視してしまうということに対する戒めの意味もあるのかもしれないと今思った。まあこれも言いすぎだろうと思うけど。


まあ、とりあえず、別にあのコピペの内容自体はそれほど的外れなことを言っていたわけではないと思うし、こういう風に似たような境地の話もあるので、それによってまあとりあえずはその価値も担保されるのではなかろうかと思うわけで。(というか取材が重要とか当然といえば当然なんじゃが)

なので、藤子・F・不二雄が言ってようが言ってまいが、別にどうでもいいっていえば、どうでもいい。
どんだけ偉い先生が言ってようが、そこらへんのホームレスのおっさんが言ってようが、肝心なのは内容だろう。
藤子・F・不二雄が言ったからといって過剰にありがたがる必要性は欠片もない。
大体誰が言ってるかってことよりも何を言ってるかってことが重要なのは、ブログ界隈とか見ても分かるだろうに。
ブログでも有名な人とか学者とかが書いてるのもあるけど、全然無名の人が良い事書いてるブログとかも幾らでもあらあな。
そこらへんは自分でちゃんと判断するってのが本当に肝心な部分なんでねえのかな。
どんだけ世間で評価を受けてようが、自分がおかしいと思えばおかしいって言えばいいし、無名の人でも良い事書いてんなと思ったら素直にそう言ったらよろしいがな。

まあ藤子・F・不二雄の名を騙ることがダメだってのは分かるけども。そりゃまた別問題な気もするんじゃよ。っていうか、今回はその辺の問題だったのか喃。まあいっか。

でもまあ、藤子・F・不二雄でも誰でも、こういう考えに基づいて、実績を残してるか、こういうことを言ってるだけかってので違うんじゃないかとかそういう話があるかも分からんけど、見識と実力が乖離してるなんてのは良くある話なわけで。

皆川ゆか、もといミナカ・ユンカースによれば、シャアの不幸は一流の見識を持ちながら、二流の才能(ニュータイプとしての)しか持たなかったことにあるらしいから喃。(ガンダムオフィシャルズP390より)*6

……ここでシャアを持ち出してくるのもどうかという気がしないではないけど(笑)。

何にしても、それを実践できたかってのも確かに重要だけど、それだけでその見識の価値が消滅するわけでもあるまいに。とか思う。

まあそんなこんなで。
なんか知らんけど最近全然纏まらねえな。やはりおいらの性質が拙速よりも巧遅だからか。
無理は良くないのかもしれん喃。

BGM:「シャアが来る」堀光一路

*1:

小説作法

小説作法

*2:

文芸の条件

文芸の条件

*3:こないだも引用した喃

*4:

新吼えろペン 6 (サンデーGXコミックス)

新吼えろペン 6 (サンデーGXコミックス)

*5:

貧乏同心御用帳 (集英社文庫)

貧乏同心御用帳 (集英社文庫)

*6:

機動戦士ガンダム公式百科事典―GUNDAM OFFICIALS

機動戦士ガンダム公式百科事典―GUNDAM OFFICIALS