「島本和彦はひとのこといえるのか問題」について島本信者の俺が書く。の反省会。

「島本和彦はひとのこといえるのか問題」について、島本信者の俺が書く。 - 古木の虚


ようやっとアクセスも落ち着いてきました。
たくさんの人に見てもらえるのは良いんですが、普段が普段なだけに、全然落ち着きません。
つうか、ゴルゴ31に載るとは思ってませんでした。
でもまあ、もう手慣れたもんですけどね。慌てず騒がずSS撮影ですよ(←全然慣れてない)。


というわけで、なんとなく、「島本和彦はひとのこといえるのか問題」について島本信者の俺が書く。の反省会をやろうかと思います*1


でも、反省会なのに(むしろ、反省会だから?)、いつも以上にグダグダになりそうな気配がします。
まあでも、今回の件でちょっと疲れたので、今回はグダグダいかせてもらおっと。*2


とりあえず、コメント欄にも書きましたけど、本当に書いて良かったと思いました。
コメント欄やブクマコメントでも、賛同してくれる方がたくさんいましたし。
ただ、ここで島本和彦的天邪鬼精神を発揮すると、
「そんなに言うくらいなら、自分も書けば良いのに」
とか思わないでもありませんでした(笑)。


あと、流石に長すぎた!
追記した分も含めると、五千字か六千字くらい(いや、もっとか?)あったんじゃねーかと。いつもいつも長いけど、流石にやりすぎた。ちょっと反省。*3
それでも読んでくれて、コメントくださったり、ブクマしたりしてくださった方は、本当にありがとうございます(笑)。
つうか、長いなら長いなりになんぞ工夫を考えるべきだよなあ。小見出しとかいろいろあるみたいだし。いつも忘れるけど。


まあ、そんなこんなで、俺の場合、コメントに返信するのもわりと一仕事なので、この数日間は割りとテンパってました。
ていうか、俺あんなにコメント欄にコメントもらったのも初めてだよ!(笑)
余談になるけど、コメント欄に「名無し」ばっかり並んでるから、どう返信したものかちょっと悩んだりもした(笑)。
別に実名書けとか、いつも使ってるハンドル書けとか言わないから、もうちょっとなんとかならんか。
「名無し」ばっかりだと呼びにくいんだよ(笑)。
何か、「名無し一号」とか「ななし」とか「ナナシ」とか、何でもいいから変化をつけて欲しかった(笑)。
まあ、いいけどさ(笑)。


なので、にゃあさんがせっかく書いてくれたのに、反応するのが遅れたりしますた。*4
「島本和彦はひとのこといえるのか問題」について、島本マンガファンの俺が書く! - Try to Star -星に挑め!
この記事を読んで思ったことをとりとめもなく書こうかと思います。
まず、

島本和彦はパロディを含んだ作風だ
 ↓
島本「パロディでなく自分でつくれ!」
 ↓
お前に言われたくない
 ↓
島本「確かにそうだが、『俺のことは棚に上げてでもお前に厳しくありたい!そうしなきゃならん!大人だから!!』
 ↓
おお!立派だ!立派だけどどこか情けないぞ


こうなる。これが島本スタイル。だと思う。

というのを見て、成る程その通りだと思いました。

もそっと言うなら、島本和彦というのは、
あんまりひとのことはいえないけれど、
「あえて言う」
言っちゃあいけないけれど、
「あえて言う」
って感じなのかもしれません。
この、「あえて言う」っていうのが島本和彦の芸風のキーワードの一つなのかもしれないとおもったっす。*5


でも、この「あえて言う」ってな結構重要なんじゃないかと思う。
例えば、何かを言う際に、「誤解を恐れずに、あえて言うならば」という前置きを使うことがたまにあるかと思います。
しかしながら、よくよく考えてみると、どんなことを言うにせよ、誤解される可能性というのは常に存在しているわけで。だから、人は、何かを言う際には、必ず「誤解を恐れずに、あえて言」っているんではなかろうか、と。
勿論、それは誤解されてもいいということではないし、誤解を避ける努力はすべきだと思う。
でも、「あえて言う」ということをしないというのなら、人は何も言えなくなるんじゃなかろうか。
つまり、人は、ある意味、常に「あえて言って」いるんじゃなかろうか。
なんか「あえて」って聞くと、物凄く特別なことみたいになってるけども、実はそうでもないんじゃないか。
それは割りと当たり前のことなんじゃあないか。そんな気がします。


だから、実のところ、島本和彦は、当たり前のことをしているだけなんじゃなかろうか。
むしろ、それが何か特別なことのようになっているってのが、ちょいとおかしんじゃないか。
そんな風にも思えます。*6


なので、みんな、どんどん「あえて言って」いけばいいんじゃねえかと思うお!


あと、

島本が他人に意見するとき、それは自身のことを棚に上げて、全力で親身になって叱るのだ。

というのは、ほんの少し違うんじゃないかと思います。
だって、本当の本当に棚に上げているのなら、

いいか…わかるか…殴られたお前の痛みよりも…

殴った俺のほうが何倍も痛いんだぞ!!


おれはお前を殴っているんじゃない!!おそらく俺自身を殴っているんだ!!

という風になるわけがない。自分自身で痛みを感じるわけがないんじゃないかと思います。
つまりは、恐らく、島本和彦は、自分のことは棚に上げてなんかいないんじゃないかと。
つうか、この辺の話を見ててふと思い出したもんがあります。

「猟師には優しい人間が多いのを知ってるかい」
 猟師は獲物を追い、鉄砲で殺す。だが発射された弾丸は、獲物を射つと同時に猟師をも射つのだと云う。名人といわれる猟師は、例外なく、その事実を知っている。その眼に見えない弾丸が、いつか自分を殺すことを良く知っている。だから、彼等の獲物を見る眼は、限りない優しさに溢れている。

かくれさと苦界行 (新潮文庫)

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つまりは、猟師の射つ弾丸が、猟師本人をも貫いているように、島本和彦もまた、自らの言葉に貫かれているのではないか。
そこには、同じように、「限りない優しさ」があるのではないか。*7
島本和彦の本質とは、そこではないか。その奥底にある「限りない優しさ」が、その真面目さと熱さを支えているのではないか。
そうやって骨身に徹して相手の痛みを感じ取る真率の優しさがあるから、島本和彦の言葉は心を打つのではないか。


そうやって考えると、週刊少年「」船越英一郎が言った
「先生って優しいですよね」
と言う一言は見事と言う他はない。
船越は、一瞬にして島本和彦の本質である優しさを見抜いたのだ。何たる慧眼。
まあそれは余談だが。
んで、こないだの話ともつながるけど、(不様に行こう。 - 古木の虚)多分、島本和彦は、「立派だけどどこか情けないぞ」という風に、自分の不様なところ、つまりは、自分の傷ついている姿、痛みをさらしているということなんじゃないか。だからこそ印象に残るんではないか。
そして、それが出来る島本和彦は、多分、「強い男」なのだ。強くて優しいのだ。


チャンドラーは、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」と言った。
ひょっとすると、島本和彦は、この言葉の体現者なのではないか。
強くなければ、自分をも傷つけるような言葉は吐けない。優しくなければ、それを言う資格がない。
強いというよりも、勇気と言った方が良いかもしれない。
本当に「強い」のであれば、傷つかないのかもしれないから。
だが、己が傷つくことを恐れない勇気をこそ、「強さ」と呼びたい。
ある意味で、真面目さと熱さや、ギャグは、その優しさを隠す仮面ではないのか。照れ隠しではないのか……。*8


こういう風に考えてみると、やはり僕は島本信者として功夫が足りてないというか、読みが浅すぎるんじゃねえかと、反省することしきりです。*9


しかしながら、そんな僕でも、今回、「あえて言って」みたことに意味はあったんじゃねえかと思います。
なので、これからも「あえて言って」いくぜ!


でも最大の問題はめんどくさがりな上、頭の回転が遅い(=話題に対する反応が遅い)ということなのであった。


*1:島本和彦のマンガチックにいこう!」の反省会(podcast)ばりにな!(嘘)

*2:いつものことだけど(笑)。

*3:ていうか、俺が他のブログであんな長いの見たら、すげえUターンしそう。まあ、ネタが島本和彦なら読むかなあとは思うが。

*4:いつものことのような気もするが(笑)。

*5:まあ、「ひとのこといえないけど」っていうときばっかりじゃないとは思いますが。

*6:まあ、なかなかそうはいかないけどね。

*7:つうか、確か島本和彦隆慶一郎好きだって言ってたな。やっぱり何か通じるものがあるんだろうか。

*8:なんか、「叱る」っていうので、富野さんを思い出すんだけど、あの人も結構そういうところがあるような気がするねえ。

*9:やっとこ反省会みたいな話が出ましたよ(笑)。