検閲の定義の話をしよう

かのあいちトリエンナーレの件についていろいろな人がいろいろなことを言っとるわけでございますが、皆さんご承知の通りその中では、検閲どうのこうのという話も出てるわけでございます。

ただ、それを見てると、何というか、皆が検閲とかその定義をどう考えてんのかよくわからんなあと思うことがありまして、その辺のことを少し書いておこうかと思ったわけでございます。つうても、僕は別に検閲が専門というわけではないので、ごく軽くになりますが。


で、だ。
ブコメにも書いたんすけど*1、問題は、裁判所の言ってる検閲の定義が狭いってことなんですよ。


具体的にどういってるかって言うとこうですわ。

憲法二一条二項にいう「検閲」とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである。


これぱっと読んだだけだと分かんないかもしれないですけど、この定義からすると、去年あたりに話題になったいわゆるブロッキングとか、あるいは先日出てたサウスパークが中国から締め出された件(-「サウスパーク」プーさん絞殺シーンなど含む中国批判エピソードを公開 検閲により中国のネットから消滅 - ねとらぼ)とかも、検閲にはなんねえんじゃねえのかって話なんですよ、これが。



とりあえずブロッキングから見ていきましょうか?


まず、ブロッキングってプロバイダがやるって話だったでしょう。
もうこの時点で、「行政権が主体となって」っていう定義に当てはまらないんですよ。だってプロバイダって行政じゃないですもん。
いや確かにね、そんなもんプロバイダが勝手にやるもんやなくて政府の要請でやるんやから実質的に行政がやるようなもんやろといって言えんことはないですよ。
でもその理屈でももしかすると厳しいかもしれないんですよ。


何でかというと、この「行政権が主体となって」っていう部分にまだくっついてるものがあんです。
この判例って税関検査でエロ本とかが見つかってはねられたって話なんですが、その中で、裁判所はそれが検閲に当たらないという理由としてこうも言ってんです。

税関検査は行政権によつて行われるとはいえ、その主体となる税関は、関税の確定及び徴収を本来の職務内容とする機関であつて、特に思想内容等を対象としてこれを規制することを独自の使命とするものではなく

同上


んで、これはつまり、

権力主体が「特に思想内容等を対象としてこれを規制することを独自の使命」とするばあいにかぎって、当該主体の権力は「検閲」にあたる、といっているらしい。もしそうだとすれば、最高裁が「検閲」の定義でいちばん最初にいう「『検閲』とは、行政権が主体となって……」という部分の「行政権」には、じつは「『特に思想内容等を対象としてこれを規制することを独自の使命』とする行政機関に担われた『行政権』」という、いっそう細かい限定が内包されていることになる。最高裁流にいえば、絵にかいたように明瞭な「検閲」専門機関―「思想内容等を……規制することを独自の使命」とする機関―がおこなうのでなければ、「検閲」には該当しないわけである。税関と同じように、郵政省もそうした「検閲」専門機関ではない。されば、郵政省は電波監理に「付随」して放送番組の「検査」をしたり、郵送事業に「付随」して小包の内容が「公安又は風俗に害する」か否か審査し、「害する」と思われる小包の郵送を拒否したりしても、いっこうに憲法上の「検閲」禁止に該当しないことになる。


奥平康弘『税関検査の「検閲性」と「表現の自由」』 ジュリスト830号 P16-17


ってことなのか?って話なんですよ。


プロバイダに内閣がお願いすんのか総務省がお願いすんのかわかりませんが、どう考えてもそれらは検閲専門機関じゃねえですからね。


しかもブロッキングに関してはまだまだきつい部分があんすよね。

内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止する

こことか。


要するにその内容のいい悪いを審査して駄目な奴を弾くって話なんですけど、ブロッキングで問題になってたの内容のいい悪いじゃなくて著作権の侵害のように思うんでそこもあてはまらない可能性があんじゃねーかって気がすんですよ。


その上、発表の禁止ってとこもまたきつい。
さっきも言ったようにこの判例は税関検査の話なんですが、

これにより輸入が禁止される表現物は、一般に、国外においては既に発表済みのものであつて、その輸入を禁止したからといつて、それは、当該表現物につき、事前に発表そのものを一切禁止するというものではない。


国外では発表出来てるんやからええやろとかいう理屈をこねてんですけど、これブロッキングもそうでしょう。別にサイトが作られる前に止められるわけやなくて既に作られてるサイトに対するアクセスがでけんようになるって話ですから。


まあ、もちろん何言ってんだてめえって言われてんですが。

憲法二十一条一項は、表現の自由を、読者、視聴者等それを知る者との関係において保障したのであって、知る者を排除した空間において保障したものでないことは、あえて説明するまでもない。検閲禁止はこのような表現の自由の保障の実効性を担保する制度であるから、その意義を国民の知る権利との関係で理解しなければならないのは、当然である。
最高裁は、税関検査は、「国外においてはすでに発表済みのもの」を対象としているから、検閲ではないといっているように、私には思われるが、もしそうであるならば、それは、国内にいる日本国民の知る権利を無視するものであって首肯しがたい。さらに、細かくいえば、〈国外においてまだ発表していないもの〉を税関検査の対象とすれば、「検閲」に該当するとでもいうのであろうか、という疑問も残る。


山内一夫 「税関検査合憲判決に対する批判」 ジュリスト830号 P7


ちなみにサウスパークの件が検閲にならねーんじゃってのもここですね。中国国内で見られないだけだから。



で、こういうことになってくると裁判所が検閲だと言ってるのは、昔あったようなおっとろしくステレオタイプな奴だけなのかという話になってくる。


……かのように思えますが、実はそれですらない疑いすらある。


裁判所はこの判決の中で、

けだし、諸外国においても、表現を事前に規制する検閲の制度により思想表現の自由が著しく制限されたという歴史的経験があり、また、わが国においても、旧憲法下における出版法(明治二六年法律第一五号)、新聞紙法(明治四二年法律第四一号)により、文書、図画ないし新聞、雑誌等を出版直前ないし発行時に提出させた上、その発売、頒布を禁止する権限が内務大臣に与えられ、その運用を通じて実質的な検閲が行われたほか、映画法(昭和一四年法律第六六号)により映画フイルムにつき内務大臣による典型的な検閲が行われる等、思想の自由な発表、交流が妨げられるに至つた経験を有するのであつて、憲法二一条二項前段の規定は、これらの経験に基づいて、検閲の絶対的禁止を宣言した趣旨と解されるのである。


と、そういうのが検閲なんだよとでも言いたげにのたまってんですが、そこに疑義があるそうで。


どういうことかというと、奥平先生曰く、

しかし最高裁は、戦前の出版取締り体系を「検閲」に該当すると考えているのだろうか。この点をたしかめるために、最高裁の定義で戦前の制度をはかってみよう。いくつかの点で定義にあてはまらないことがわかる。いちばん問題になるのは、最高裁の定義が徹頭徹尾「発表」にかかわっているところにある。ところが、戦前のシステムは「発表は自由」、しかし「『発売頒布』(伝達)のレベルで取締る」ということを眼目としていた。戦前の内務官僚は「発表は自由」というたてまえのゆえに、この制度を欧米と同列の「自由主義」を採るものと自賛していた位である。このゆえに、最高裁の定義のうちの「目的」、つまり「発表の禁止」を目的とするという標識は、戦前の制度にまったくあてはまらないことがわかる。次に「網羅的一般的に……審査」したかどうかをみてみると、戦前の制度では出版物等をいっせいに「納本」させはしたが、「網羅的一般的に」審査したわけではない。そういうコストのかかり手間ひまを要する方式では対応できないので、伝達のレベルで「容易に判定し得る限り」のものを選択的に審査する仕組みを採用したのだった。
すなわち、戦前の制度は、権力行使の態様において「検閲」とはいえないことになる。さらにまた、戦前の制度は最高裁の定義の最後にあたる「不適当と認めるものの発表を禁止する」効果をもつかどうかという点でも不合格である。「〔国内において〕すでに発表済みのもの」の、その伝達(発売頒布)を禁止するものだったからである。


奥平康弘『税関検査の「検閲性」と「表現の自由」』 ジュリスト830号 P17-18


更に、

私からみて「検閲」に該当するのではなかろうかと思う規制体系の多くが、最高裁の定義では「検閲」にならないことになる。それでいいのだろうか。このことをかいつまんで摘示する。戦前にはまず非公式に内務大臣の新聞掲載記事差止命令というのが発達し、一九四一年の新聞紙等掲載制限令によってそれは内閣総理大臣にひきつがれて正式の制度となった。軍事・外交・財政なんであれ国策上都合が悪いと感じた事件や事項を指定して、新聞紙等にいっさい掲載させないこととしたこの制度は、私からみれば「検閲」の最たるものであるが、最高裁の定義に照らせば「検閲」とはならないだろう。それはある事項を特定して「発表」を禁止するものではあるが、「一般的網羅的に、発表前にその内容を審査」するシステムではないからである。しかも新聞紙等以外の媒体によって「発表」する機会が全くないわけではない、とうそぶくことが十分にできるのである。


同上 P18


というわけで、

最高裁独特の検閲概念はあまりにも限定的にすぎ不当であるというのが学説のほぼ一致した見解である。


長岡徹 「検閲と事前抑制」 ジュリスト1089号 P238


一致されちゃったよ。


そんなわけで、流石にもうちょっと何とかしねえとということになるわけですが、どこをどういう理屈でどうするのかは大変に難しい話になるわけですよ。


まあ、例えば、数年前に話題になった芦部信喜先生*2なんかはこういう風なこと言ったりしてます。

検閲の時期は、思想内容の発表前か後かで判断されてきた(すなわち、発表前の抑制が検閲と解されてきた)が、表現の自由を知る権利を中心に構成する立場をとれば、むしろ思想・情報の受領時を基準として、受領前の抑制や、思想・情報の発表に重大な抑止的な効果を及ぼすような事後規制も、検閲の問題となりうると解するのが妥当であろう。


芦部信喜 「憲法」第三版 p179-180


この考え方でいくとサウスパークの件なんかは引っかけられそうな気がします。
ブロッキングはまだ厳しいように思いますが。


ともあれ僕が気になるのは、ブロッキングとか中国のやってることとかについて検閲だって言うときはそんなに定義を気にしてねえように思えんのに、何故かトリエンナーレの件についてはえらく気にするんやなっていうことなんですが。


だってトリエンナーレについて検閲には当たらないって言ってる人はちらほら見かけますけど、ブロッキングとか中国がネットでやってることについて検閲には当たらないって言ってる人見たことないですもん。
まあ僕の観測範囲の問題かもしれませんけども。


これらはそれぞれ態様が違うわけですからその評価も違ってくるんやってのもわかんなくはないですが、わが国の裁判所が言ってるキツキツすぎてガバガバな定義には引っかからないんじゃねえかって点ではどれも一緒じゃなかろうかと思うんですよ。


だから要するに今までは、裁判所の定義を知っててやってんのか知らずにやってたのかはともかくとして、あんまりそれを気にせずに、

公権力が表現内容を審査して一定のものを言論市場から排除する機能が問題の焦点


長岡徹 「検閲と事前抑制」 ジュリスト1089号 P238-239


だってことを、直観的にというか、何となく捉えて、柔軟な言い方とか使い方をしてんやろうなあと思ってたわけですよ(ちなみに、僕は、そういう感覚的なものは悪いことではないし、むしろ大事なんじゃないかと思ってます。これはおかしいんやないかとか感じるっていうのは、議論の出発点になりますからね。特に検閲に関しては裁判所の定義があんななのでそこにこだわりすぎるとなあというのもありますし)。


でまあ普段そういう風にしているんじゃなかろうかと見受けられる人とか、あるいはそれに対して特に異を唱えたりしてないような人の中に、何故か、今回のトリエンナーレの件については、えらく厳密に定義にあてはまるかどうかを気にし出してる人がいるように思えるんですけども、それはいったいどういうことなんでしょうか。


いうて大した理由とかなくて、ブロッキングなんかのネットの云々に比べると芸術祭ってあんま身近でもないような話だから、感覚的にピンと来ないとかそんなことかもしれませんが、そういうこと言い出すとあちらこちらからニーメラーさんが生えてくるような気もしますし。


そんなわけで、よくわからんなと首をひねっておる次第でございます。



あと前もって言っときますが、こういう話すると諸外国ではどうやねんみたいなことが気になるなあという方もいると思います。


だがやめろ。


他の国の動向調べて比較するとかマジで論文になるレベルやんけ。そんなもんやらせようとすんな。
やるんなら自分でやっていただきたい。
俺はもうめんどくさいんだ。
めんどくさいので今日は以上だ。