東浩紀終了のお知らせ

タイトルはホッテントリメーカーから。
http://pha22.net/hotentry/
とりあえず、今更ながら、ようやっと「リアルのゆくえ」を読んだので、この機会に、ネットとかでのあれこれを見てて、俺が東浩紀に対して思ったことを脈絡もなく総ざらえしとこうかと。

長いので、目次見て面白そうだったら読んでください。


東浩紀はオタクなのか?

んじゃ、とりあえず、軽いところから。
なんつーかね。前々から思ってたんだけど、東浩紀って、オタクじゃないよね。多分。
一応、東浩紀は、

僕は確かに大学のオタク系サークルに入ったことはありませんし、そういう人脈もありません。けれど僕は、僕なりにアニメを愛し、エヴァンゲリオンのときも仕事をしたし、今回も本を書きました。それもまた、1971年生まれのオタク、というかアニメファンのひとつのかたちだったと思います。

とか言ってるみたいなんで、自分自身では、自分はオタクだと考えてるんだと思う。
まあ、2002年の時点での話であって、今は違うかもしれんけど。
だけども、俺は、どーも、東浩紀のことを、オタクだとは思えんのよね。
確かに、上のページでも、東浩紀が、

僕は自分がおたくと見なされるどうか、結論を出すことにあまり興味がありません。というのも、その基準は、結局のところ個人個人で違うからです。

って言ってるように、オタクかどうかの基準は極めて曖昧で、こういうこと言い出すと大変に揉めそうではあるんだけど、それでもあえて言うと、オタクってな、ある種の習性とか癖で特徴付けられるんじゃなかろーかって気がしてる。
例えば、収集癖とかさ。
一切の例外がないとは言わないけど、大抵のオタクには、収集癖が多かれ少なかれあるんじゃないかな。
俺だって、あれっすよ。
おうちにHDDレコーダーが導入されて以後、録画したアニメを焼いたDVDがえらいことになってますよ。*1
まあ、収集癖がある人はオタクとは言わないけど、ほとんどのオタクは収集癖を持ってるってな、結構同意してくれる人も多いんじゃないかと。
竹熊さんなんかが言ってる、「オタク特有の雰囲気」ってのも、ここら辺と無関係じゃないような気がする。

「オタク遺伝子」については、確かにオタクにとって、世界のどこに行ってもオタクがいればすぐに「仲間」だとピンと来ることはあります。人種を越えたオタク特有の雰囲気というものが、確かにある。人類普遍の人格類型としてそれはあるように思われるので、遺伝子と言いたくなる気持ちもわからないではない。しかしこれはあくまでも比喩なので、そんな遺伝子は発見されてないし、たぶんないんじゃないかと思うんですよ。

でまあ、「リアルのゆくえ」読んでて思ったんだけど、大塚英志は、間違いなくオタクだよね(笑)。

大塚 そこが気になるんだよね。君がワンフェスで講演をやったことがあるでしょう。ぼくもあのとき会場にいて、血まなこで美少女フィギュアを買い漁っていたんだけど、後ろ見たら君、いるじゃん。でもそこで東浩紀が何を話していようと知ったこっちゃないという感じだったんだよね。別にすかしてそう言うんじゃなくて、とにかく、あの日一日で買うもん買わなかったら大変なことになるという、おたく的危機感から美少女フィギュア山ほど抱えて歩いてた。

大塚英志東浩紀「リアルのゆくえ」P35-36より

何なんだよ、この漫画みてーなオタクは(笑)。
まあ、この「買うもん買わなかったら」ってのも、収集癖の現れの一つではあるよね。勿論、それだけじゃなくて、他にもいろいろなもんが混ざってるとは思うけど。
でも、東浩紀って、あんまり、オタク的な習性がないような気がするんだよね。
俺が、それを確信したのが、この記事なんだけどさ。
hirokiazuma.com
まあ、これは収集癖とはちょっと違うんだけど、東浩紀は、この記事で、

ぼくとしては、そもそも文脈的に、ぼくが山本氏が監督の回を指しているのは明らかなので、DVDの話数を調べるのも面倒だし、放映時の記憶で話数を記したまでのことです。というわけで、ぼくが指していたのは、「サムデイ……」というタイトルのエピソードでした。キョンが暖房器具取りに行くやつです。

って書いてんだよね。
だけどさあ。
これ、オタクだったら、「サムデイ……」なんて中途半端な書き方せずに、ぐぐって、ちゃんと「サムデイ イン ザ レイン」って書くんじゃねえのかな。
むしろ、オタク的習性から考えると、調べずにはいられない、正確な表記をせずにはいられないと言ったほうが正確だとは思うけど。
いやね、例えば、本や漫画の引用なんかで、手元にその本がなくて、どうしても曖昧な書き方になってしまうとか、あまりにも記憶が曖昧すぎて、ぐぐるにぐぐれんってなら、分かるよ。
でも、放映時の話数と、「サムデイ……」まで分かってんなら、調べるのに五分もかからんだろう。
あと、

DVDの話数を調べるのも面倒だし

って言ってるけど、調べようと思えば、すぐ調べられることを、「面倒」だって言うオタクは、あんまいないような気がする。
しかも、追記する時も調べてないんだよね。
たったそれだけのことを、どれだけ「面倒」がってるんだよ、っていう(笑)。
ぶっちゃけた話、オタクだったら、ぐぐるどころか、棚からDVDを引っ張り出してきて調べてもおかしくないとこじゃなかろーか。*2
とまあ、これに同意してくれる人がどんくらいいるのかわかんないけど、俺としては、こういう理由で、東浩紀はオタ臭くねえなーと思うわけですよ。
しかしながら、「東浩紀はオタクじゃない」とか書くと、オタクじゃないと何か駄目なことがあるのかとか、オタクじゃなきゃオタクについて語っちゃいけないのかとか言う向きがあるかと思います。
確かに、オタクでないことは、それ自体としては、いけないことではないし、一般論としては、オタクじゃなきゃオタクについて語っちゃいけないなんてことはありません。
でも。
「リアルのゆくえ」のでじこに関する以下のくだりとか、

東  上手い下手ということで言ったら、コゲどんぼは上手いです。でも、作家性というのは、単純に上手い下手とも違うでしょう。コゲどんぼコゲどんぼでなければ作り出せなかったオリジナリティがあるのかどうか。
大塚 それは猫耳やエプロンといった、それこそおたく界でデータベース化された既存の意匠を持ってきているということでしょう?
東  具体的な実感ですけど。
大塚 作家性の定義によるけど、あの子の絵の個性みたいなものがあって、その個性に対して受け手が反応するという関係があるということはあると思うんだよね。パブロフの犬みたいに猫耳とエプロンとしっぽと妹見せときゃ客がよだれたらすという程には受け手は単純じゃないよ。よい猫耳とそうでない猫耳があって、それはどんなにささやかでも作家性に支えられている。
東  それは難しいと思う。マンガにそういう関係があることは認めます。けれど萌え絵の世界は標準化が激しくて、ネットにはごろごろ同じ絵が転がっている。ぼくはコゲさんの絵はそのきわめて高品質なものだという認識です。それに、樋上いたるが新しい萌えを開発したという主張なら分かる。でもコゲさんの絵は、その点でも保守的です。

大塚英志東浩紀「リアルのゆくえ」P135より

東  いや、そういうことじゃないんです。ぼくが言いたいのは消費者との関係で、大塚さんは先ほど、いまの消費者がコゲどんぼの作家性に反応しているとおっしゃったから、その部分に反論しているんです。一個人、一批評家としてコゲどんぼの絵を見たときに、もちろんそこには他の作家との違いが発見できる。でも、多くの消費者を駆動しているのがその部分かと言えば、それは違うのではないか。
大塚 僕は反応していると思うよ。つまり、そこまでお客さんたちがシステマティックに、それこそ動物化しているとは思わない。

大塚英志東浩紀「リアルのゆくえ」P137より

孫引きになって申し訳ないけど、2008-11-16 - 東浩紀の文章を批評する日記で引用されてる、

したがって、作画がマズかろうが、動きが平板だろうが、そんなものはアニメを見るうえでまったく障害にならない。彼らは、アニメを見ているようで、実はアニメそのものは見ていない。漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、彼らにとっては、脳内に萌の対象を作り出すために必要な情報を引き出す一種のデータベースでしかなくなっているようだ。

ゲームラボ2003年10月号『crypto-survival notes repure

とか見てると、オタクじゃないから、オタクのことが分からない、オタクというものに対して的外れなことを言ってしまうってとこに、思い切りはまり込んでる気がするんだよね。
それで、オタクじゃなきゃいけないのかみたいな反論されてもなあっていう。
大体、今は、「東浩紀」ってオタクじゃないから、「東浩紀のオタク評論」ってアレだよねって話をしてるのであって、「オタクじゃない人」の「オタク評論」ってアレだよねって話はしてないんですよ。
何いきなり主語を巨大化させてんだって感じですよ。
まあ、この手の○○じゃなきゃ××しちゃいけないのかみたいに主語を巨大化させて、自分に対する批判をかわそうとするひとは、ネット上ではよく居るんですが。
と、それは余談。


それにしても、そういう東浩紀と比べると、大塚英志は、オタクだから、オタク的な実感から話をしてて、わりと共感できるなあ。俺的には、大塚英志大塚英志で色々と気に食わねえところもあるんですが、やっぱり
大塚英志>(越えられない壁)>東浩紀
だと思わざるを得ない。
あと、

作画がマズかろうが

とか言ってるけど、昨今、作画崩壊ってことばが出てきてる状況との整合性は、どう考えてるんだろ。
どーでもいいっちゃどーでもいいけど。
んじゃ、そろそろ次行くかな。

東浩紀の読解力がアレな件

俺、ゼロアカとかいうのは、よく知らんのですけど、こういう話があったらしいんですよ。
門下生が道場主に物申す - 形而上学女郎館
hirokiazuma.com
要するにゼロアカに参加してる人がUstをしてて、そこのチャットに東浩紀が参加した。
それに対して、特別扱いじゃないか、っていう風に他の参加者から抗議が来て、東浩紀がそれに返答したっていう話らしいんですけど。
この、東浩紀の「返答」ってえのが、またなかなか曲者なわけですよ。

もし筑井さんの抗議が、「まだ結果は見えないのに、東さんの判断を公にするのはやめてくれ」というものなのだとすれば、「いや、東採点はもう決まっているので、そのかぎりではぼくも行動を制約しなくてよいのだ、それを見て文フリでどう売れるかはわからないけど」というのが、ぼくの答えです。

凄いよね。これ。つまりは、「結果に関係ないから問題ないお」だもん。
常識的に考えて、抗議して来た人の言いたいことって、「結果に関係あろうがなかろうが、特定のチームをひいきしているように見える行動はやめてほしい」ってことなのに。
抗議して来た人は、

これまで東さんは、「自分は道場主である以上、特定のチームを応援しているか、あるいはどのチームに期待を寄せているのか、ということを明らかにすることは非常にまずい」という態度を一貫してとられてきました。それは飲み会の席においても同様であったと、私はすべてには参加していませんが感じてきたし、それゆえ信頼をしていました。

って言ってるように、今まで、東浩紀を信頼してたわけで、そういう行動をとられると、信頼できないってことを言ってるのに。
このボタンのかけちがいっぷりは凄すぎると思うんだが。
しかも、さらに、東浩紀は、

ただ、それとはまったく別のレベルで応答しておけば、筑井さんの抗議は、いままでのゼロアカのノリ(そして筑井さん自身のニコニコ動画などでのノリ)からしていささか唐突かもな、とは思います。


というのも、筑波ust(これはぼくは旅行中で見れなかった)→女郎館ust(潜伏して観察を試してみた)→最終批評神話ust(降臨してみた)は、ある意味で自然な流れではあるし、女郎感ustを覗いていたことをぼくはブログで記してもいる。あのエントリを見て、筑井さんのところこそ「贔屓」されていると感じた門下生はほかにもいるかもしれない。みんな、たがいにそう思っているものです。

って書いてる。
確かに、見てもらえなかった人は、見てもらえた人に対して、ひいきされていると思ったかもしれない。
でも、その見てもらえたか、見てもらえなかったかって、ほとんど不可抗力じゃないですか。
Ustやるほうにとっても、東浩紀にとっても、スケジュールが合うかどうかは、分かんないんだから。
だから、見る見ないってな、たまたまスケジュールが合って、見られたとか、たまたまスケジュールが合わなくて、見られなかったっていう差なんですよね。
なので、俺も、そこは、それほど目くじら立てるほどのことでもないかな、とは思いますよ。仕方がないって面があるから。勿論、そこでそういう差がどうしても出来てしまうから、全部見ないって選択肢もありますけど。
だけど、チャットに参加するかどうかは、完全に東浩紀の意思でどうにかできる部分じゃないですか。
それを同列に語るってどうなの。*3
何かもう、俺としては、東浩紀の読解力とか理解力ってアレなんじゃねえのとしか言いようがねえです。

東浩紀が病み始めてる件

ぼくの考えでは、アニメ批評がいまなぜ低調かといえば、知識があるひとがいないとか情熱があるひとがいないとか以前に、そもそもアニメ批評は、読者の(読者の、です。書き手の、ではありません)質があまりに悪すぎて、いま批評を志す人間にとってコストが高いわりにリターンが少ないからです。

なぜ!!
なぜこんな……つまんねぇものが売れてんだよ――――っ!
こんなクソつまんねぇマンガが――――っ!!
おれにはまったくわかんねーよ!!
読者の頭がわりーんじゃねーのか!?
とか思いはじめたら――
確実に自分自身が病みはじめてる凶兆!
そんな時は!!
他人のマンガより、まず自分を心配しなくては!!

島本和彦新吼えろペン」四巻P144-P145

新吼えろペン 4 (サンデーGXコミックス)

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あっ……。

終わりに



東浩紀が、「リアルのゆくえ」のあとがきで、

それにしても、今回ゲラを通読してあらためて感じたのは、なぜ大塚氏はぼくにこんなに苛立つのだろうという疑問である。

大塚英志東浩紀「リアルのゆくえ」P324より

って言ってるんだけど、面白いよね。
そりゃ、あなた、あなたの相手をまともにしてりゃ、多少苛立つくらい不思議でもなんでもないでしょうよ(笑)。


まあ、こういうことをつらつら書くと、「人格批判だ!」とかいう人が居ると思うけど、結局のところ、問題はそこなんだから、この場合、「人格批判」になるのは仕方ないっちゃ仕方ないんだよね。
例え人格だろうが何だろうが、批判するべきは批判しなきゃいけないと思うし。
無駄な気もするけど。
東浩紀が、これを読むことはないだろうし、万々一読んだとしても、東浩紀の人格が変わることはありえない。つうか、僕はそこまで傲慢ではない。隆慶一郎曰く、それは神の領域だからね。

既に成人となった男の人格を変えることは、人間に出来ることではない。それは神の領域だった。

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)

それでも、東浩紀「以外」の人間に、東浩紀という人間を判断する材料の一つを提示することは、多分意味のないことではないのではないか。
とりあえず、俺はそう言い訳しておくよ。


ちなみに、東工大の件に関しては、既にたくさんの人が意見を言っていて、俺の言いたいことも大体言い尽くされてたので、割愛しました。悪しからず。
BGM:「Zodiacal Sign」仁科かおり

*1:そして、持ってるだけでほとんど見返すことはないんだ。これが。

*2:無論、DVDを所有していれば、の話。

*3:まあ、俺が、東浩紀の言うところの、「ゼロアカのノリ」とやらを理解してないだけかもしれんけど。