物語性とゲーム性:res

はいどうも皆さんこんにちは。我ながら手の遅いこと甚だしい男、mimizuku004でございます。
今回は、以前僕が書いた物語性とゲーム性 - 一切余計という記事に寄せられたhttp://d.hatena.ne.jp/north2015/20080328/1206659054という記事にお返事しようかと思います。
なんで今更三年も前の話を蒸し返すのかってえと、ご想像のとおりすごい勢いで失念していました。
本当に申し訳ありません。*1
で、id:north2015さんの話は、概ね、

物語は常にそういう「ただひとつの」ものだったかといえば、そうではないのではと思ったりする。

古来、物語は異同・異聞を許すものとしてあり、ほんらい物語はただ一つの結末に向かっていくものではない

同上

それゆえに、ここで「ゲーム性」として物語性と対比して語られている偶然性は、本来物語に組み込まれていた部分が切り出されているものではないか、と思う。逆に言えばこうもいえる。本来ゲーム的なものとしてあり、ゲーム性をその内に含んでいた物語は、ゲーム性を切り捨てることでそのあり方を変化させた。

同上

だから、本来は物語性とゲーム性は対立しないのではなかろうか

同上

っていうとこだと思うんですけど、大体僕の記事がいい加減なせいでいろいろ誤解をさせてしまっているな、と。
まず、言わなきゃいけないのは、あの記事は、本文中に書かなかったんですけど、TRPGを念頭に置いた話なんですよ。
north2015さんのブログ検索したら、どうやらTRPGというものをご存知のようなので説明は省きますが。
んで、当時僕が何を考えてたかっていうと、具体的かつ端的にに言えば、「TRPGのシナリオにおいて、ゲーム性を損なうことなく物語性を高めることが出来るか。あるいは、ゲーム性と物語性を同時に高めることが出来るか」って話だったりします(似てるような似てないような話:ヒーローとピンチは切っても切れない間柄 - 一切余計)。*2
それを突き詰めて考えてて、唐突にああいう電波を受信したわけなんですね。
てなわけで、TRPGというゲーム的なところもあり、物語的なところもある代物(こういう言い方は至極乱暴でまたぞろ揉めそうな気もしますが今回の話の便宜上こうさせて頂きます。)の経験があり、それを念頭に置いていた以上、

物語は常にそういう「ただひとつの」ものだったかといえば、そうではないのではと思ったりする。

という部分は、特に異論ないです。要するに「ただひとつでない」ものを「ただひとつ」のものに近づけるにはどうしたらいいのかってことを考えてたわけですから(あとこれ:原則と例外 - 一切余計)。
まあ、あれがTRPGの話だってのは、記事に「TRPG」タグつけてる以外はどこにも書いてないんで、僕のブログを継続的にご覧になってない限り分かんないのが普通だと思います。*3
逆に前からブクマとかしてもらってるid:koutyalemonさんなんかはTRPGのシナリオの話だってのが分かってるっぽいブコメをつけてる、と思ったら今koutyalemonさんのはてブがプライベートになってて見れねぇ。確か『シナリオ論としては正しいと見た』とかいうコメントだった気がする。
閑話休題
次に、

それゆえに、ここで「ゲーム性」として物語性と対比して語られている偶然性は、本来物語に組み込まれていた部分が切り出されているものではないか、と思う。逆に言えばこうもいえる。本来ゲーム的なものとしてあり、ゲーム性をその内に含んでいた物語は、ゲーム性を切り捨てることでそのあり方を変化させた

だから、本来は物語性とゲーム性は対立しないのではなかろうか

っていうとこなんですけど、ここはちょっと見解の相違がある気がしますね。
昔の物語の中に物語性と共にゲーム性が含まれていたというのはいいとしても、含まれていたからと言ってその二つの性質が対立しないというのはいささか早計だと思います。
何て言うか、物語からゲーム性が切り捨てられたということと、物語性とゲーム性が対立しているということは、無関係じゃないんじゃないでしょうか。
僕がTRPGのシナリオにおいて物語性を「高める」ことを目指して、この考えに至ったことと考え合わせると、物語の物語性を「高める」内に、つまりは、「異同・異聞を許すものとしてあった物語」が、「今、商品として流通しているような物語」になっていく過程で、段々と物語性とゲーム性の対立が顕在化してきて、その結果、切り捨てられたという見方も出来るんじゃないかと思われます。*4
とは言っても、ここら辺は証拠のある話じゃないんで、例によって例の如く電波の域は出ません。
なので、どっちが正しいとか間違ってるとかいう結論を出すのは難しいように思います。*5
まあ、north2015さんの記事を読んで、僕はそんなようなことを思いついたってことで一つ。


とりあえずここまでで、north2015さんへのお返事は終わりなんだけど、一つすっごい気になってることがあんだよね。
最近、ブラウザのブクマ整理してたら未読フォルダの中から、IGDA Japan chapter - 記事・レポートなど-Ludologyと物語論の出会い:(ビデオ)ゲームと物語の類似と相違 IGDA Japan chapter - 記事・レポートなど-Ludologyと物語論の出会い:(ビデオ)ゲームと物語の類似と相違っていうのが出て来ましてね(なんか今見れないんでwebarchiveでどうぞ。http://classic-web.archive.org/web/20041106060139/http://www.igda.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=49)。
「あー、そういやこんなのあったなー。めんどくさくて読んでなかったけど」と思って読んでたら、僕の話とすごい似通った部分があったのね。

まず最初に、Bremondの枠組みは物語そのものではなく、著者が物語を作る際における複数の物語の可能性を表現しているものである。物語そのものは作者が枠組みにおいてどの道を取るかを決定して(そして、シークエンスが作られて)はじめて物語になる。

同じように、我々のludusの枠組みはゲームの可能性(勝つか負けるか)を表現しているが、ludusの特定のセッションを表現するものではない。Ludusとセッションは異なるものである。前者は一般的であり、後者は特定のものを指している。

したがって、我々はLudusと物語が同一であるとは主張できない。なぜなら前者は可能性の集合であるが、後者は一連の行動の集合であるからだ。二者が同一と主張するのはBremondの枠組みとシークエンスが同じであると主張するようなものだ。

これ見てゲーム性には偶然性っていう言葉じゃなくて可能性って言葉当てればよかったねって思ったんだけど、それはそれとして、すげえ同じような話じゃないですかこれ。
なんでお前らすぐ言わねえんだよ。
では、今日はこの辺で。

BGM:「侵略ノススメ☆」ULTRA-PRISM

*1:言い訳めいたことを言うと、『あとで書けたらもう一度書きます。』って書いてらしたので「あー、続きあんのかなー」とか思ってるうちに忘れました。

*2:昔の話なんで大分記憶が薄いですが。

*3:「試論(TRPG)」タグは最近新設したタグなんで当時はついてなかったはず。

*4:勿論、それだけが理由ではなくて、それこそ、north2015さんのおっしゃるように『語り手とか近代化とか著者とか即興性の切捨てとか』も関係してくるだろうことは、想像に難くありません。

*5:あと、個人的に思うんだけど「物語」って言葉の指し示す範囲がとんでもなく広いこともそれに拍車をかけてるよね。多分。